勿凝学問9
 あの話はどこに行ったのか?
――民主党の世襲禁止令――
2004年5月25日脱稿
慶應義塾大学
商学部 教授
権丈 善一
民主党党改革案の世襲禁止令
イギリスの政治家リクルート方法と政党・政治家間のギブ・アンド・テイク
◆マニフェスト選挙・マニフェスト政治実現のための前提条件


民主党党改革案の世襲禁止令

2004年4月27日、民主党の党改革素案がまとまり、そのなかに「国政選挙で三親等内の世襲候補の同一選挙区からの立候補を原則禁止」が盛り込まれた。わたくしがチェックしている、朝日、産経、東京、日経、毎日、読売のなかでこの件に触れたのは、3紙のみであった。産経が4月28日朝刊5面に掲載、朝日が5月2日朝刊1面、日経が5月4日朝刊2面で取り扱っていた。『年金改革と積極的社会保障政策』に載せた随筆の中で「各政党のリクルート方法の改善・・・をはじめとして、わたくしが日本の政治に改革を期するところ山ほどにある[1]」と書いたりしてきたわたくしは、さっそく、連休明けの5月12日(水)の講義で、民主党の改革案を紹介した。そして、「ひょっとすると民主党は、今後とも政党として生き残ることができるのかもしれない」という話をした。<生き残ることができるのかもしれない>という話をしたのは、その数週間前に講義のなかで、「<将来2大政党の一翼を担う民主党>という言葉を怖くて使うことができないんだよね。だって、7月の参院選あたりで民主党は解体するかもしれないから。だから、「2004年、年金と政治、そして将来の考え方の中では、<将来2大政党の一翼を担うかもしれない民主党>というように、注意深く書いている」と話していたからである。注意深く、<将来2大政党の一翼を担うかもしれない民主党>と書いたのは4月17日(土)脱稿の随筆であり、執筆していた時は、衆議院補欠選挙〔25日(日)〕、菅民主党前代表の年金保険料未納の発覚〔28日(水)〕よりも前であった。しかしながら、民主党が政府の年金法案に対して審議拒否などという戦略をとっているのをながめていて、有権者はこの時代遅れの戦略を是とする雰囲気を持つ政党に嫌気がさすのではなかろうかと心配していた。ゆえにわたくしは、この戦略のままでいけば、遅かれ早かれ民主党は消えてなくなるおそれもあると思え、民主党が消滅しても大丈夫な文章を書いていた。

そうした時期、4月27日の党改革案に、三親等内の世襲禁止が盛り込まれた。民主党もちゃんとした生命維持装置を備えているではないかという気持ちになり、学生たちに民主党の覚悟を紹介したのである。わたくしが政治を考えるときには、政党は次の選挙での得票率極大化行動をとるという仮説に基づいて接近するのであるが[2]、この日本にも政党同士が健全な競争をする仕組みが少しずつ芽生えてきたのか、民主党は、「既得権にとらわれない、開かれた党をアピールし、党勢再建の切り札」[3]として、世襲禁止令を出してきた。普通に考えれば、政治家は自分の親族にその地位を世襲させたいはずである。これは本能レベルの欲求なのだろうと思うし、世襲の自由は、政治家にとって一種の既得権なのだとも思う。しかしそうした本能レベルの欲求を抑え、既得権を放棄してまで有権者に譲歩でもしないことには、党の存在が危うくなってきた。その危うさは衆議院補欠選挙が一部証明した〔4月25日〕。そこで、従来から若干は視野に入れられていた世襲禁止令が、党改革案に組みこまれた〔4月27日〕。政治家が有権者に一歩譲って、得票数を増やそうとしているのである――政党間競争の効用と呼ぶことができるであろう。

とっ、わたくしのなかでは盛り上がっている話なのではあるが、民主党の党改革案は、世間では悲しいほどに無視されている。のみならず、民主党さえもアピールしようとしていない。4月27日に民主党の党改革案ができた後、今日5月22日夜まで、先にあげた新聞6紙で取り上げられたのは産経、朝日、日経のわずか3紙がそれぞれ1回ずつ取り扱った3回しかない。これでは世論が盛り上がりようもない。いずれにしても、有権者が知らなければ、どんなに思い切った良いアイデアであっても、民主党にとって切り札などになるはずもない。

イギリスの政治家リクルート方法と政党・政治家間のギブ・アンド・テイク

ここで、なぜわたくしが、政治家のリクルート方法にこだわり、その改善が日本の政治改革のカギであると考えてきたのかを分かってもらうために、毎年、講義のなかで雑談に使ってきていたトニー・ブレアが政治家になるまでの話を紹介しておこう。まず、最初に確認しておきたいことは、彼は、日本で政治家になるために必要とされる、「地盤・看板・カバン」のいずれも備え持っていなかったということである。普通に弁護士事務所で働いていた彼が、1982年5月2729歳時に、ロンドン郊外ベコンズフィールズ選挙区の保守党議員が死亡したため補欠選挙が行われたのを機に、そこから立候補する。結果は、落選であった。次に、翌1983年6月9日30歳時、ダーラムに隣接するセッジフィールド選挙区より立候補して初当選をはたす。彼が最初に立候補したベコンズフィールド選挙区と2度目に立候補したセッジフィールド選挙区との直線距離は、およそ340キロであり、ブレアは両選挙区のいずれにも地盤を持っていなかった。

1982年にベコンズフィールドでの補欠選挙に彼が立候補できたのは、労働党立候補者の公募に名乗りをあげた4人の中で彼の弁舌が最も優れていると、その地区の労働党員に認められ候補者として選ばれたからである。ロンドン近郊は保守党が強く、まして保守党議員の死亡ゆえの補欠選挙であったため、ブレアにははじめから勝ち目はなかった。しかしながら、保守党の強い地盤で闘って保守党からの立候補者に少しでも詰め寄ることができれば、「あの候補者はなかなかやるではないか」という評判を労働党内で得ることができる。そしてその評判があれば、次の選挙の際には、候補者の公募で有利になるし、評判が極めて高まれば、労働党優位の選挙区をも譲り受けることができる。しかも、イギリスでの選挙費用には、個人で使う額にも政党が使う額にも上限があり、その額が、我々日本人からみれば信じられないほどに低い。たとえば、1候補者個人が使うことのできる選挙費用の上限は、選挙区内の有権者の数によって異なるのであるが、およそ1万ポンド〔約200万円〕である。党が候補者に期待する役割は、党が掲げるマニフェストを広く有権者に広報することにより得票数を伸ばすことである。候補者は、その期待に応えることと引き替えに党の公認を得、選挙費用を党が負担してくれるのであるから、日本の選挙に必要となる「カバン」も無用となる。と同時に、党の方からみれば、リクルート段階での人事権を党が握ることにより、個々人の政治活動をコントロールすることが可能となる。こうした政党・候補者間のギブ・アンド・テイクの関係が整備されてこそ、イギリスに、マニフェスト選挙、マニフェスト政治を実現させる前提が揃うのである。

 話をブレアの初当選に戻そう。選挙の時期が、フォークランド紛争の最中であり(1982年4月2日−6月14日)、サッチャーの政策に順風が吹いた時期に重なったことも原因であったかもしれないのだが、残念ながら、ブレアの補欠選挙への立候補は散々な結果であった。したがって、翌年の6月9日に総選挙が行われることになっても、5月6日、ブレア30歳の誕生日に彼は選挙区も決まらず、もんもんとしていた。その誕生日の日に、彼の妻シェリー・ブースは、ブレアを励ますために誕生パーティを開く。そこでブレアは、ある情報を得る。その情報とは、選挙区の境界線の改訂で新たに設けられたセッジフィールド選挙区の立候補者の推薦が、まだ終わっていないというものであった。誕生パーティの翌朝、ブレアは勤務先の法律事務所に休暇を願い、バッグに衣類を詰めてセッジフィールドに向かう。そして「地盤・看板・カバン」とは無縁のブレアは、はじめて会った人たちに自分をこの選挙区の労働党候補として推薦するように説得し、およそ一月後の総選挙で、セッジフィールド選挙区からの下院議員として当選した。
 
 このストーリーは、少しばかりわくわくする話である。そしてこうした、政治家という職業に魅力を感じさせる逸話を、日本ではとんと聞くことがない。その点が、わたくしには寂しく思えるのである。ここでひとつ、イギリスの政治家リクルート方法をまとめておこう。

「イギリスで下院議員になるには、いくつかの道がある。たとえば労働党の下院議員候補者になるには、

1.       組合活動で活躍して労組の推薦を受ける。

2.       市会議員などで地域活動を行い、党支部の推薦を得る。

3.       党本部で職員として働き、政治家としての才能を認められる。

4.       大学教授など知的活動で有名になり、党本部の推薦を受ける。

5.       自力で各選挙区にある党支部に自分の経歴や党歴などを売り込み、支部の立候補を決める選挙に勝つ、などの方法がある。

 日本のような地盤や看板、カバンといったものは、いっさい必要としない。個人の能力、活動歴などをもとに、最終的には選挙区の党支部が党員の選挙で立候補者を決めるのである。したがって、二世議員が登場する余地はほとんどない[4]

 このうち、ブレアの出身ルートは5番目であった。1から5までのルートが、それぞれどの程度の割合を占めるのか、そして、本当に二世議員が誕生しづらい環境がしっかりと整備されているのかどうかについては、まだわたくしの中での確認は終えていない。けれども、ここ数年ウォッチングしてきたイギリス政治の中で、上に書かれていることへの際だった反証例も見出せていない。そして何よりも、先に記したように、イギリスの政党は、リクルート段階で相当の人事権を持っており、選挙費用をも負担していることは事実である。そしてこの事実がなければ、イギリスで、マニフェスト選挙、マニフェスト政治が機能するのかどうか疑わしい。

マニフェスト選挙・マニフェスト政治実現のための前提条件整備

 日本の政治環境は、党の作ったマニフェスト――その実態は本場のものと比べると貧弱ではあるのだが――で国会議員の言動を規制しようとすると、「独裁」という言葉を使って批判される状況にある。日本に2大政党制を根付かせ、イギリスのように具体例が詳述されたマニフェストを有権者に示した上で、マニフェスト選挙・マニフェスト政治を実現するというのであれば、実は、政党がリクルート段階での人事権を握ることにより、マニフェストに国会議員を従わせ、国会議員の勝手気ままな言動を規制する状況となっても、「独裁」などという言葉で批判されない環境整備を進める必要がある。民主党が党改革案に記したらしい小選挙区の三親等以内世襲(原則)禁止、および予備選挙の(試行的)導入は、そうした方向に日本の政治を進める、まずは第一歩であるようにわたくしには思える――「原則」とか「試行的」という言葉がなければ、大きな一歩と呼んでもよい。もっとも日本の政治を変えるにあたり、世襲を禁止することそのものは、決して目的ではない。それに今日の状況にあっては、世襲議員の評判はなかなか良かったりもする。けれども、政党がリクルート段階での人事権を掌握できる状況を作るためには、この国では世襲禁止という荒療治が、まずは有効な策であるように思える。そうであるのに、民主党が党改革案に盛り込んだ世襲禁止令は、メディアからは無視されているようであるし、最近の年金国会の混乱、民主党代表の交代劇の中で、民主党そのものが忘れかけているのではないかと心配もしたくなる。将来、2大政党の一翼を担うことになるかもしれない民主党には、ここはひとつ大いに頑張ってもらいたいのだが・・・。それも無理そうなので、せめてメディアが民主党が口にしてしまったことを大々的にとりあげて国民周知のものとしてしまい、民主党が引くに引かれぬようにしてくれれば、おもしろくなるのだが・・・。それもやはり無理か。

参考文献

黒岩 徹(1999)『決断するイギリス――ニューリーダーの誕生』文藝春秋
権丈善一(2001)『再分配政策の政治経済学――日本の医療と社会保障』慶應義塾大学出版会
________(2004)『年金改革と積極的社会保障政策――所得再分配政策の政治経済学U』慶應義塾大学出版会


[1]権丈(2004), pp.245-6.

[2]権丈(2001)「1章 再分配政策形成における利益集団と未組織有権者の役割」参照。

[3] 2004/04/28,産経新聞 東京朝刊, 5ページ。

同紙に掲載されていた、民主党党改革案骨子は次の七項目である。

≪素案の骨子≫

 (1)国政選挙の新人候補者などへの支援強化

 (2)衆院選選挙区の候補選定のための予備選挙を試行的に導入

 (3)国政選挙で世襲候補の同一選挙区からの立候補を原則禁止

 (4)国政選挙の女性新人候補の支援強化と
           衆院選比例名簿上位登載の優遇措置を検討

 (5)衆院比例重複立候補者定年は70歳

 (6)首長選挙で都道府県連独自の推薦は認めない

 (7)平成17年度をめどに「政治スクール」を開講

[4]黒岩徹(1999), p.69.

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