2004年5月31日脱稿 | |||
慶應義塾大学 商学部 教授 権丈 善一 |
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◆政治家(政党)の得票率極大化行動と投票者の合理的無知 ◆経済学に登場する本音も建て前もない利己的で合理的な個人 ◆政治経済学のすすめ ◆年金国会、終盤の読み方と民主主義 |
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政治家(政党)の得票率極大化行動と投票者の合理的無知 | |||
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ここにある<本音>というような言葉を含んだ記事を読むと、わたくしはいろいろと考えはじめ思考遊びの世界に旅立ってしまう。本音も建て前もあったものではなく、彼らは、最初から最後まで一貫して本音に基づいて行動しているではないか。そして現状は、次のような状況にあるのだと・・・。 |
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冒頭に引用した新聞記事に触発されたわたくしの思考遊びの基礎をなすのは、「政党(政治家)は次の選挙での得票率極大化行動をとる」という考え方、および「投票者の合理的無知」という考え方である。なぜ、わたくしが、こういう(ひょっとすると不謹慎な)考え方をするのか、少し説明しておこう。 経済学に登場する本音も建て前もない利己的で合理的な個人 経済学は人間を利己的な個人であると仮定する。そしてこの利己的な個人が、消費者である場合には自らの効用を極大化させるものと想定し、企業家である場合には自社の利潤を極大化させるものと想定する。こうした仮定が、人間の性質を捉えるにあたり、ある面、極端な仮定であることは分かる。ゆえに、そういう仮定が役に立つはずがないと思う人がいるかもしれないけれど、情けないことに、この考え方は世の中の出来事を結構説明してしまう。ちなみに、利益誘導の仕組みを変えてみれば、聖職とみなされてしかるべき教師や医者の行動さえもころりと変わる。さらには、経済学は、人間の行動を100%説明しようなどという野望など持っておらず、そのおおよそを説明することができれば満足する程度に存外謙虚なものでもある。 このように、人間の行動を説明し予測をする際に、利己的個人の仮定はなかなか使えることを知るわたくしは、人間が政治家になれば、突然にしてなによりも国民のことを慮かる利他的な個人になってしまうなどとはまったく考えてもいないし、正直なところ、考えたこともない。政治家にも生活があるだろうし、家族を養っていかなくてはならないであろう。彼・彼女が政治家であるために生計を立てることができる人もいるであろうし、もちろん後援者も構えている。そしてさらに野党にあるときの政治活動というものは、想像するにあまり面白くなさそうでもある。だから彼らにとっては、選挙で当選することが絶対的な目標となるであろうし、政党にとっても、次の選挙で党勢を極大化させることを絶対的な目標として掲げるであろうと想定してしまう。 そしてもし、国民の利益を極大化させる戦略をとるべきか、それとも次の選挙で得票率を極大化させる戦略をとるべきかの選択に直面したとき、前者の戦略を捨てて後者の戦略を選択するであろうとも予測する。こうした、国民の利益を極大化させる戦略と、選挙で勝つ戦略が相反する状況は、国民が正しく情報を得ていないときに起こり得るとも考えているし、国民が正しく情報付けられていない状況は、むしろ常態であるとも考えている。国民が利己的にかつ合理的に行動すれば、公共政策に詳しくなるために時間を費やすなど割に合うはずもなく、彼らはどうしても公共政策について無知となる。これを専門用語では、<投票者の合理的無知[1]>と呼ぶのであるが、この考え方は相当に妥当であると思える。このあたりの話は、講義の中では次のように説明する。「古代ローマでは、イベリア半島の住民にも市民権を与え、市民権を行使するためにはローマまで足を運んで投票しなければならないとして、実質的には市民権を有名無実化した。これと似たような側面が、現代の民主主義にもある。キリストが生まれた頃にイベリア半島からローマまで移動するコストと、現代のような複雑な社会で正確な情報を獲得するコストを比べると、いずれのコストの方が高いのか、わたくしには判断ができない。情報獲得コストを視野に入れることは、現代の民主主義を考える上で重要なことである。率直に言えば、現代社会において公共政策に関する情報獲得コストは極めて高くなっている。そして国民は高い情報獲得コストを進んで負担しようとするはずがなく、彼らは獲得コストの安い情報を受け止めるにすぎない存在となる。したがって、国民が情報を得るに安いコストの情報発信源を押さえた者が、権力を握りやすくなる。と同時に、そうした情報発信源がしっかりしていない社会では、民主主義はいい加減にしか機能しない。ゆえに、現代の民主主義は、他の政体に負けず劣らず、かなり危うい基盤の上に成立している政体だと思っている」。 政治経済学のすすめわたくしが、こういう考え方を昔から一貫して持ち続けているのは多分に性格に由来するものであろうとも思える。学生時に厚生経済学を勉強していたときから、社会的厚生を高める政策を是とし、それを論じて終わりとする論理構造を持つ厚生経済学をながめて、「だから何なの?厚生経済学が是とする政策を採用すれば政治家が選挙で有利になるという保証はあるのか?政治家は正しい政策ではなく、選挙で有利になる政策を選択するに決まっている。政治家が採用する見込みのない政策をいくら考えていくら口にしても、全く無駄だとまでは言わないが、無力であることは確かだろうよ」と、ひとり教科書に向かってつっこみを入れていた。こうした考え方を、「わたくしの研究の特徴」として、2年半ほど前に箇条書きにしたことがある[2]〔カッコ内の章の数は、『再分配政策の政治経済学』における該当箇所を示す〕。
ここにあげたような、政策形成過程における権力の作用や価値判断の問題をも視野に入れながら目の前に起こる現象を分析・総合・判断する方法として、『再分配政策の政治経済学』において、<政治経済学>を私流に定義した。さらに、「規範分析は、分析で得られる結論の方向に社会を動かすことができるだけの<力>を備えてはじめて、その分析は成功したと評価される分析なのである[3]」という考えに基づいて、映画「クレイドル・ウィル・ロック」に登場するオーソン・ウェルズ(俳優 アンガス・マクファーデン)が語る次の言葉を借りて、わたくしのアプローチのねらいを語ってもらっていた。すなわち、「人びとが演劇をみて頭にくるなら、それこそが演劇の役割だ[4]」。 そして、政治経済学的な考え方の中心部分は、2年半前にわたくしがはじめて出した本『再分配政策の政治経済学』の1章の書き出しに、次の言葉で要約した。「政策は、所詮、力が作るのであって、正しさが作るのではない。これを描写できる政策形成モデルを得たいというのが、本章の根底にある問題意識である[5]」。 ところで、年金国会と言われたり、未納国会と呼ばれたりしている2004年国会もいよいよ終盤を迎えた。ここで簡単に、年金法案をめぐって、いったい何が起こっているのかを整理しておこう。 いま、年金法案の行方として4つが考えられる。それをわたくしが望ましいと思っている順番に並べると、@三党合意を具体的な形にして三党合意の上での採決、A三党合意を空手形としたまま三党合意の上での採決、B強行採決、それとC廃案である。なぜ、わたくしがこの順番に望ましいと考えているかについては、『年金改革と積極的社会保障政策』や、「2004年、年金と政治、そして将来の考え方」「年金報道の見分け方」などを読んでもらいたい。そして与党にとって、最も優先順位が高いのはAであり、決して@ではない。その理由は、@を実行するためには、将来的に税制の抜本改革を実行せざるを得なくなり、そのことは、いずれ自営業者、農業者からの支援を失うおそれがあることを意味するからである〔「2004年、年金と政治、そして将来の考え方」参照〕。一方、民主党の現執行部は、CBの順で自らの得票率が高くなると考えているようである。そして、@の実行は政府には無理であると踏んだ上で、@を政府に要求する姿勢をとっている。 我々は毎日の生活で多忙であるために、代わりに政治家たちに天下国家のことを考えてもらっている。しかしその代議士=政治家たちにも生活があるのだから、彼らが、落選するかも知れない正しいことよりも、当選を保証する間違ったことの方が望ましいと考えたとしても無理はない。そうであるから、国民は、正しいことをしてくれる政治家・政党に投票、そうでない政治家・政党には投票しないという判別ができるほどには賢くならなければならないのである。民主主義とはそういうものなのであり、ボーッとして受け身のままで望ましい社会を実現できるものではない。けれども、国民が情報獲得コストをすすんで負担して、少しばかり賢くなりさえすれば、民主主義は他の政体よりはましな政体となり得る見込みは持っている。民主主義が最悪の事態となるのは、制度のせいでは決してなく、残念ながら国民のせいとしか言いようがないのである。 _______(2004)『年金改革と積極的社会保障政策――再分配政策の政治経済学U』 [1]「ダウンズが考案し、政治の経済学の世界では普通に用いられている・・・<(投票者の)合理的無知>とは、野菜やくだものの値段や、パソコンの価格を調べたり、すてきなデート・スポットを探したりというような日々の生活に有益な情報を得るために費やす時間やお金(コスト)を、公共政策をしっかりと評価するために要する時間やお金に回す気にはとてもなれなという<合理的な選択の結果としての無知>である。つまり、<合理的無知>は、無能なのだから無知なのではなく、忙しいから無知であるという意味を持つことになる。 [2]権丈(2001), pp.7-8. [3]権丈(2001), p.15. [4]権丈(2001), pp.15-6. [5]権丈(2001), p.21. |
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