2005年11月15日ー19日
| スウィフト / ガリバー | アイルランド史 | イングランド史 | |||
|---|---|---|---|---|---|
| BC3500 | Boyne Valleyに集落形成 Newgrange | ||||
| BC200 | ケルト移入 王タラのもとに統一国家が形成 | ||||
| 432 | 聖パトリックがアイルランドに渡る 5世紀にアイルランドへキリスト教を広めた宣教師であり、現在ではアイルランドの守護聖人として知られている。 もともとアイルランド人ではなく、ローマ支配下のブリテン島に生まれたと考えられている。16歳ごろ、アイルランドの略奪者にさらわれて奴隷として連れて行かれ、そこで羊飼いとして数年間暮らした。その後、脱出して故郷に戻った。 ところが後年、彼は今度は宣教師として自らアイルランドへ戻ったと伝えられている。現地の王や有力者に働きかけながら布教し、修道院や教会の成立に大きな影響を与えた。 有名なのが、シャムロック(三つ葉のクローバー)の伝説である。三枚の葉を使って「父・子・聖霊」の三位一体を説明したとされる。ただし、これは後世の伝承であり、史実かどうかは明らかではない。 また、「聖パトリックがアイルランドから蛇を追い払った」という伝説もあるが、これも象徴的な物語と考えられている。 | ||||
| 修道院が発展し、修道院に富が集まる | |||||
| 700年代 | 『ケルズの書』作成 8世紀から9世紀ごろに制作されたとされる、キリスト教の四福音書を収めた豪華な装飾写本である。 ラテン語で書かれており、本文そのものに加えて、複雑な組紐文様、動植物、人物、幾何学模様などを組み合わせた極めて精緻な装飾で知られている。中世アイルランドの修道院文化を代表する作品であり、ケルト美術とキリスト教文化が融合した最高傑作の一つと評価されている。 名称は、長くアイルランドのケルズ修道院に保管されていたことに由来する。制作地については、スコットランドのアイオナ島やアイルランドなど諸説がある。 現在はダブリンのトリニティ・カレッジに所蔵されており、アイルランドを代表する文化財の一つとなっている。 | ||||
| 793 | ヴァイキング来襲始まる 狙いは修道院の富・財宝 ただし、多くのヴァイキングはケルト人と同化 | ||||
| 1014 | アイルランド連合軍、クロンターフの戦いで ヴァイキング撃退 | ||||
| 1169 | 内紛にヘンリー2世介入 イギリスを支配したノルマン人が侵入を始める | ノルマンコンケストは1066年 ノルマンディー公ウィリアムがイングランドに侵攻し、1066年10月14日のヘイスティングズの戦いでイングランド王ハロルド2世を破った。その後、同年12月25日にウィリアム1世として戴冠した。 | |||
| 1171 | 10/16 | ヘンリー2世上陸。アイルランド貴族、 ヘンリー2世の宋主権を認める ここでも、ノルマン人はケルト人と同化 | |||
| 1199 | ヘンリー2世の子ジョン王アイルランド王兼任 ダブリン城築城 | ||||
| 1541 | 1/23 | ヘンリー8世アイルランド王宣言 アイルランドのノルマン貴族を追放 | |||
| エリザベス1世キンセールの戦いでノルマン貴族の反乱を撃破 抵抗激しかったアルスター州に、スコットランドからプロテスタントを入植 | |||||
| 1588 | アルマダ海戦 | ||||
| 1592 | ダブリン大学(Trinity College) エリザベス1世により設立 オックスブリッジをモデルとした複数カレッジ構想頓挫 | ||||
| 1603 | ジェームズ1世 もともとはスコットランド王ジェームズ6世であり、1603年にイングランド女王エリザベス1世が死去すると、イングランド王位も継承してジェームズ1世となった。これによって、イングランドとスコットランドは同じ君主を戴く同君連合となった。 アイルランドとの関係では、ジェームズ1世期にアルスター植民(Plantation of Ulster)が本格化し、イングランドやスコットランドからプロテスタント系住民が北アイルランドへ移住した。これは後世のアイルランド問題、特に北アイルランド問題の歴史的背景として非常に重要である。 | ||||
| 1625 | チャールズ1世 1600年生まれ、1649年没のイングランド・スコットランド・アイルランド王である。父はジェームズ1世で、1625年に即位した。 王権神授説を強く信奉し、議会との対立を深めた。課税や宗教政策をめぐる対立が激化し、最終的に清教徒革命(イングランド内戦)へと発展した。 1642年に内戦が始まり、王党派はオリヴァー・クロムウェルら議会派に敗北した。チャールズ1世は捕らえられ、1649年1月30日に処刑された。国王が裁判にかけられ、公開処刑されたことはヨーロッパ史上でも大きな事件である。 アイルランド史との関係では、この内戦と王の処刑後、クロムウェルが1649年にアイルランドへ侵攻し、ドロヘダやウェックスフォードなどで激しい戦闘と虐殺を行った。そのため、アイルランドではクロムウェルの名が今なお非常に強い負の記憶と結びついている。 流れとしては、ジェームズ1世(1603–1625)→チャールズ1世(1625–1649)→共和国・クロムウェル政権→王政復古(1660)となる。 | ||||
| 1641 | 11/2 | アイルランド蜂起 アルスター地域でカトリック教徒の反乱 多くのプロテスタント入植者が殺される | |||
| 1649 | 1/30 | チャールズ1世処刑 | |||
| 1649 | 蜂起鎮圧のためにクロムウェル上陸 クロムウェルによるドロヘダの虐殺 イギリスによるアイルランド支配確立 | ||||
| 1658 | クロムウェル 没 | ||||
| 1660 | 王政復古で、チャールズ1世の子 チャールズ2世が即位 | ||||
| 1667 | 11/30 | ダブリンで誕生 | |||
| 1673 | イギリスが審査律(Test Act)制定 公職を英国国教会に限定 (審査律撤廃がオコンネルの仕事) チャールズ2世の王政復古期に、公職からカトリック教徒を排除することを目的として制定された。公職に就く者に対して、イングランド国教会の聖餐を受け、カトリックの教義を否定する宣誓などを要求したため、実質的にカトリック教徒は政府や軍の重要な職に就けなくなった。 この法律はアイルランド史を考えるうえでも重要――多数派であるカトリック系アイルランド人が政治・行政の主要な地位から排除され、プロテスタントによる政治的支配が強化されていく流れの一部となった。 | ||||
| 1685 | チャールズ2世の弟 ジェームズ2世即位 | ||||
| 1687 | ジェームズ2世による信仰自由宣言 | ||||
| 1688 | 6/10 | ジェームズ2世に嫡男出生 | |||
| 12/23 | 名誉革命 ジェームズ2世フランス亡命 カトリックであった国王ジェームズ2世に対し、議会の有力者たちがオランダ総督**ウィリアム(オラニエ公)**とその妻メアリを招いた。ウィリアムが1688年にイングランドへ上陸すると、ジェームズ2世はフランスへ亡命した。 その後、1689年にウィリアム3世とメアリ2世が共同統治者として即位し、同年の**権利章典(Bill of Rights)**によって、国王の権限が制限され、議会の権利が明確化された。 「名誉革命」と呼ばれるのは、イングランド本土では比較的流血が少なかったためである。ただし、アイルランドやスコットランドでは激しい戦闘が起きたので、「無血革命」と単純に理解するのは正確ではない。 アイルランド史では特に重要で、ジェームズ2世を支持するカトリック勢力と、ウィリアム3世を支持するプロテスタント勢力が争った。その決定的な戦いが1690年のボイン川の戦いである。ここでウィリアム3世が勝利し、アイルランドにおけるプロテスタント支配が一段と強化されていった。 | ||||
| 1689 | テンプル卿秘書としてイングランドへ | 22 | メアリー2世即位(-1694) ウィリアム3世即位(-1702) 権利章典 | ||
| 1690 | 7/11 | ポイン川の戦 ウィリアム3世、ルイ14世支援のジェイムズ2世を破る アイルランドカトリック、プロテスタントに敗れる 1690年7月1日(旧暦)、現在の暦では7月11日にアイルランドで行われた戦いである。 対立したのは、名誉革命で王位を追われたジェームズ2世を支持するジャコバイト軍と、新国王ウィリアム3世の軍であった。戦場はダブリン北方のボイン川周辺で、ウィリアム3世側が勝利した。 この敗北によってジェームズ2世は再びフランスへ逃れ、アイルランドにおけるカトリック勢力の政治的巻き返しは大きく後退した。その後、1691年のリムリック条約を経て、プロテスタント支配がさらに強固になっていく。 アイルランド史では、単なる王位継承争いではなく、カトリックとプロテスタントの政治的支配をめぐる象徴的な戦いとして非常に重要である。現在でも北アイルランドのプロテスタント系ユニオニスト文化では、この勝利が強く記憶されている。 | |||
| 1691 | リムリックでアイルランドカトリック完全降伏 リムリック協定(信教の自由を保証)・・・守られず 以降、追加的に制定された異教徒刑罰法などで、カトリック教徒の政治的経済的諸権利は剥奪。 教師になることも禁じられる。 | ||||
| 1694 | ダブリンに戻り聖職 | 27 | |||
| 1695 | テンプル家に戻る | 28 | |||
| 1699 | テンプル卿死去 スウィフト去る | 32 | |||
| 1699 | 5/4 | アンテロープ号でブリストルを出航 | |||
| 小人国(リリパット) | |||||
| 1702 | 4/13 | ダウンズ着 | |||
| アン女王即位(-14) | |||||
| 1702 | 6/20 | アドベンチャー号でダウンズを出航 | |||
| 大人国(ブロブディンアグ) | |||||
| 1704 | 『書物合戦』『桶物語り』 | 37 | |||
| 1706 | 6/3 | ダウンズ着 | |||
| 1706 | 8/5 | ホープウェル号でダウンズを出航 | |||
| 飛ぶ島(ラピュータ) | |||||
| 1707 | グレートブリテン連合王国 | ||||
| 1709 | 5/21 | ラグナグ王国発 | |||
| 1709 | 5/27 | 日本南東ザモスキ着 | |||
| 1709 | 6/9 | 長崎着 | |||
| 1710 | トーリー党機関誌「エグザミナー」編集人 | 43 | |||
| 4/6 | アムステルダム着 | ||||
| 4/10 | ダウンズ着 | ||||
| 1710 | 9/7 | アドヴェンチャー号船長としてポーツマス出航 | |||
| 馬の国(フウイニム) | |||||
| 1713 | セント・パトリック大聖堂首席司祭 | 46 | |||
| 1715 | 12/5 | ダウンズ着 | ハノーバー朝ジョージ1世即位(-27) | ||
| 1727 | カトリック教徒の選挙権剥奪 | ||||
| 1742 | 4/13 | ヘンデルのメサイアがパトリック教会で初演 | |||
| 1769 | ウェリントン、ダブリンに誕生 | ||||
| 1720 | 南海泡沫事件 | ||||
| 1721 | 初代首相ウォルポール、 2回目の第1大蔵卿兼大蔵大臣(-42) | ||||
| 1726 | 『ガリバー旅行記』 | 59 | |||
| 1728 | 刑罰法規をアイルランド議会可決 (カトリック一掃を狙う) | ||||
| 1729 | 『おだやかな提案』 | 62 | アイルランドの貧困問題を解決するため、貧しい家庭の乳児を食用として富裕層に売ればよい。 冷静な経済計算の口調で、乳児を「商品」として扱い、 ・貧困家庭の負担が減る ・富裕層には新しい食材が提供される ・親には収入が入る ・国全体の経済にも利益になる などと「合理的」に説明。 | ||
| 1745 | 10/19 | 没 | 77 | ||
| セント・パトリック病院 | |||||
| 1755 | 8/6 | ダニエル・オコンネル誕生 | |||
| 1776 | アメリカ独立戦争 | ||||
| 1789 | フランス革命 | ||||
| 1795 | この時期、アイリッシュ・プロテスタントの急進派が United Irishmenが設立 ウォルフ・トーンなど | ||||
| 1798 | United Irishmen武装蜂起 ナポレオンの支援があるも鎮圧される | ||||
| 1800 | 2/5 | アイルランド議会、ウェストミンスター議会との合同を可決 | |||
| 1801 | 高まる独立機運に危惧した議会は、アイルランド議会閉鎖 正式にイギリスの一部となる イギリス議会に32名の上院議員、100名の下院議員を送る アイルランド上流階級がロンドン生活をするようになり、アイルランド経済に大打撃 不在地主制農業経済を加速 | ||||
| 1815 | 6/18 | ワーテルローの戦い ウェリントン46歳 | |||
| 1823 | ダニエル・オコンネルによりカトリック教会設立 | ||||
| 1828 | ウェリントン内閣(-30) アイルランド史との関係で最も重要なのは、彼の内閣で1829年のカトリック教徒解放法が成立したことである。ウェリントン自身は当初、カトリック解放に慎重であったが、ダニエル・オコンネルの運動が大きな政治的圧力となり、アイルランドでの混乱を避けるために方針転換した。 | ||||
| 1829 | カトリック解放令 カトリック教徒オコンネルに議席を許す 最大の功績は、カトリック教徒に対する政治的差別の撤廃を求め、カトリック解放運動を主導したことである。1828年に下院議員に当選したが、当時の宣誓制度ではカトリック教徒は実質的に議席に就けなかった。その政治的圧力を背景に、1829年のカトリック教徒解放法(Catholic Relief Act)が成立した。 その後は、1801年に成立したイギリスとアイルランドの合同を撤回し、アイルランド議会の復活を目指す合同撤回運動(Repeal Movement)を進めた。 武力闘争よりも、大衆集会・選挙・議会活動による非暴力的な政治運動を重視した点が特徴で、後世のアイルランド民族運動にも大きな影響を与えた人物。 | ||||
| 1845-52 | ジャガイモ大飢饉 100万人餓死、100万人移住 820万人口が1900年までに40%に減少 1845年から1852年ごろにアイルランドを襲った大飢饉. 直接の原因は、主食であったジャガイモに疫病(ジャガイモ疫病/potato blight)が広がり、収穫が壊滅的な打撃を受けたことである。しかし被害がここまで深刻になった背景には、土地所有制度、貧困、イギリス政府の救済政策の限界など、社会・政治的要因も大きく関わっていた。 この飢饉によって、約100万人が死亡し、さらに100万人以上が国外へ移住したとされる。とくにアメリカ、カナダ、イギリスなどへの大量移民が進み、アイルランドの人口は長期にわたって大きく減少した。 アイルランド史では、この飢饉は単なる自然災害ではなく、イギリス統治への不信と反発を深め、民族運動や独立運動を強める契機となった重要な出来事である。 | ||||
| 1848 | 飢饉対策を政府に要求するも無視される 青年アイルランド党蜂起 | ||||
| 1852 | ウェリントン没 | ||||
| 1868 | 第1次グラッドストン内閣(-74) | ||||
| 1867 | ファニアン宣言 フィニアン運動 =アメリカンアイリッシュが外からイギリスに打撃 宣言の思想で重要なのは、単なる自治ではなく、イギリスから完全に独立した民主的共和国を求めた点である。これは後の1916年のイースター蜂起へとつながる共和主義の系譜を形成した。実際、フェニアン運動の中心であったIRBはその後も存続し、1916年蜂起で中心的役割を果たしている。 なお、フェニアン運動とアメリカのアイルランド系移民社会との関係はきわめて深い。フェニアン運動は、アイルランド本国だけでなく、アメリカのアイルランド系移民社会によって、資金・人材の両面から支えられた運動であった。 とくに1840年代のジャガイモ飢饉以降、多数のアイルランド人がアメリカへ移住した。彼らのなかには、飢饉の被害をイギリス統治の責任と考え、強い反英感情を抱く者も少なくなかった。 1858年、アイルランド本国ではジェームズ・スティーヴンズらによってアイルランド共和同盟(IRB)が結成された。同じころアメリカでは、ジョン・オマホニーらによってフェニアン・ブラザーフッド(Fenian Brotherhood)が組織された。この二つは、大西洋を挟んだ共和主義運動の両翼とみることができる。 さらに重要なのが、1861年から1865年にかけてのアメリカ南北戦争である。北軍・南軍の双方に多数のアイルランド系移民が参加し、戦争終結後には、軍事経験を持つアイルランド系兵士がフェニアン運動に加わった。これにより、アメリカのフェニアンは資金だけでなく、実戦経験を持つ人材も提供できるようになった。 その勢いを背景として、アメリカのフェニアンは1866年以降、イギリス領カナダへの侵攻、いわゆるフェニアン襲撃を行った。カナダを攻撃・占領し、それを交渉材料としてイギリスにアイルランド独立を認めさせようとする構想であった。 | ||||
| 1869 | アイルランド国教会制度の廃止 | ||||
| 1871 | 第1次土地法成立 | ||||
| 1875 | スチュアート・パーネルMPとなり、 グラッドストーンと共にアイルランド自治法案に尽力 グラッドストンがアイルランドに比較的協力的であった理由は、単なる「親アイルランド感情」ではなく、宗教的・道徳的信念と、連合王国を維持するための政治的現実主義が結びついていたからである。 ウィリアム・グラッドストンは、アイルランド問題の根底には、イギリスによる統治のあり方そのものに不公正があると考えるようになった。とくに問題視したのが、宗教と土地制度である。アイルランド住民の多数はカトリックであるにもかかわらず、少数派のプロテスタントであるアイルランド国教会が国教として特権を享受していた。また、土地の多くをプロテスタント系地主が所有し、多数のカトリック農民が借地人として不安定な立場に置かれていた。 そこで第一次グラッドストン内閣は、まず1869年にアイルランド国教会を廃止し、国家による特権的地位をなくした。さらに1870年には第一次アイルランド土地法を制定し、小作農の権利保護を進めた。 グラッドストン自身は、第一次内閣成立時にアイルランド問題への取り組みを、 “to pacify Ireland” すなわち「アイルランドを平和にする」と表現している。 ここで重要なのは、彼が当初からアイルランド独立を支持していたわけではないことである。むしろ目的は、不公正を是正することによってアイルランド人の不満を和らげ、イギリスとの連合を維持することにあった。 しかし1880年代になると、チャールズ・スチュワート・パーネルを中心とするアイルランド議会党が勢力を拡大し、自治要求を無視することが困難になった。そこでグラッドストンはさらに踏み込み、**アイルランド自治(Home Rule)**を支持するようになる。1886年には第一次アイルランド自治法案を提出したが、自由党内部からも反対者が出て否決された。1893年の第二次自治法案も下院を通過したものの、貴族院に否決された。 したがって、グラッドストンの考え方は、 「アイルランドを独立させたい」 ではなく、 「不公正な統治を続ければ、かえってアイルランドを失う。自治を認めることで連合を維持したい」 というものだったと理解するとよい。 これはかなり重要な転換である。19世紀前半のオコンネルに対する譲歩が主としてカトリック解放であったのに対し、グラッドストンの時代には、問題が宗教的平等 → 土地問題 → 政治的自治へと進んでいったのである。 | ||||
| 1880 | 第2次グラッドストン内閣(-85) | ||||
| 1882 | 10/14 | ||||
| 1885 | 土地購入法 アイルランド小作農に土地購入代金を全額貸与することが定められ 自作農創設による土地問題の解決がはかられた | ||||
| 1890 | 10/16 | マイケル・コリンズ誕生 マイケル・コリンズ : 作品情報・キャスト・あらすじ – 映画.com 1916年のイースター蜂起に参加し、蜂起失敗後に逮捕・収容された。釈放後は、シン・フェインやアイルランド共和軍(IRA)の中心人物となり、1919年に始まったアイルランド独立戦争では、情報網の構築やゲリラ戦を指揮したことで知られている。 とくに、イギリス側の情報機関に対抗する独自の諜報組織を築き、少人数の部隊による奇襲や暗殺を組み合わせるなど、正規軍同士の戦争とは異なる戦術を採用した。 転機となったのは1921年の英愛条約(Anglo-Irish Treaty)である。コリンズはアイルランド側代表として交渉に参加し、イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国を成立させる条約に署名した。 しかし、この条約はアイルランド共和国の完全独立を実現するものではなく、北アイルランドの分離も残したため、独立運動内部で激しい対立を生んだ。エイモン・デ・ヴァレラらは条約に反対し、コリンズら条約支持派との間で1922年にアイルランド内戦が始まった。 コリンズはその内戦中の1922年8月22日、故郷コーク県で反条約派の待ち伏せ攻撃を受け、31歳で死亡した。 | |||
| 1890 | デ・ヴァレラ、マンハッタンにて誕生 アメリカ・ニューヨークに生まれ、幼少期にアイルランドへ移った。1916年のイースター蜂起では反乱軍の指揮官の一人として参加した。蜂起後に死刑判決を受けたものの、アメリカ生まれであったことなども背景に減刑され、処刑を免れた。 その後、独立運動の政治的指導者となり、シン・フェイン党を率いた。1919年には独立派議員がイギリス議会への出席を拒否して独自の議会**ドイル・エアラン(Dáil Éireann)を設立し、デ・ヴァレラはその指導者となった。同時期にIRAとイギリス側との間でアイルランド独立戦争(1919~1921年)**が展開された。 マイケル・コリンズとの最大の対立点は、1921年の英愛条約である。コリンズらは、イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国を成立させる条約を現実的な前進として受け入れた。これに対しデ・ヴァレラは、イギリス国王への忠誠宣誓や北アイルランドの分離などを理由に条約に反対した。 この対立が、 コリンズ=条約支持派 対 デ・ヴァレラ=条約反対派 という構図を生み、1922年のアイルランド内戦へとつながった。 しかしデ・ヴァレラは、その後、武力闘争から議会政治へと軸足を移した。1926年にフィアナ・フォイル(Fianna Fáil)を結成し、1932年に政権を獲得した。以後、首相を長期間務め、イギリスとの制度的な結びつきを徐々に弱めていった。 とくに重要なのが、1937年の新憲法制定である。これによって国家の主権性が一段と強まり、国名として「Éire(エール)」または「Ireland」が採用された。その後1949年に正式に共和国となり、英連邦を離脱した。 | 第3次グラッドストン内閣(-92) | |||
| 1905 | 11/28 | Sinn Fein設立 by アーサー・グリフィス グリフィスは、コリンズと共に条約に批准。 内戦で死亡。 | |||
| 1912 | アイルランド自治法案可決 しかし、WWⅠで施行延期 | ||||
| 1914 | 8/4 | イギリスWWⅠ参戦 | |||
| 1916 | 4/24 | イースター蜂起ースター蜂起 この蜂起自体はアイリッシュの共感を得られなかった。 だが、首謀者16人、デ・ヴァレラを除く中15人が処刑。 愛国心を呼び起こす。 (アイルランド独立派がGPOを占拠して本部とし、パトリック・ピアースが「アイルランド共和国」の樹立を宣言しました。その後、英軍との激しい戦闘で建物は大きく破壊されました。蜂起は4月29日に降伏して終結) | |||
| 12/6 | ロイド・ジョージ連立内閣 | ||||
| 1918 | アイルランドに徴兵令施行 | ||||
| 12 | SinnFeinn党、クーポン選挙で大勝利 穏健な国民党大敗 | クーポン選挙 第一次世界大戦直後、首相デイヴィッド・ロイド=ジョージと保守党党首ボナー・ローが、連立政権を支持する候補者に推薦状を送った。この推薦状が「クーポン」と呼ばれたため、この選挙はクーポン選挙と呼ばれるようになった。 この選挙はアイルランド史でも非常に重要である。アイルランドでは、従来の自治派であったアイルランド議会党が大敗し、完全独立を掲げるシン・フェイン党が圧勝した。 シン・フェインの当選議員たちはロンドンのイギリス議会への出席を拒否し、1919年1月にダブリンで独自の議会ドイル・エアラン(Dáil Éireann)を開いた。そしてアイルランドの独立を宣言した。 したがって、アイルランド史では、 イースター蜂起(1916) → クーポン選挙・シン・フェイン圧勝(1918) → ドイル・エアラン成立(1919) → アイルランド独立戦争(1919~1921) という流れになる。 つまりクーポン選挙は、アイルランド民族運動が「イギリス国内での自治要求」から「独立国家の建設」へと決定的に転換した選挙であった。 | |||
| 1919 | 1/21 | 総選挙の勝利を受けてアイルランド独立宣言 War of Independence | |||
| 1920 | 1 | コリンズのゲリラ戦に対して、 英国からブラック・アンド・タンズが送られる アイルランド独立戦争(1919~1921年)の際に、イギリス政府がアイルランドへ投入した武装警察補助部隊である。 1920年ごろから、王立アイルランド警察(RIC)の人員不足を補うため、主として第一次世界大戦後のイギリス人退役兵を大量に採用した。制服が不足していたため、濃緑色の警察制服とカーキ色の軍服を混用し、その色合いから「ブラック・アンド・タンズ」と呼ばれた。 彼らはIRAのゲリラ活動に対抗したが、報復として民家や商店を焼き払ったり、一般市民に暴行を加えたりするなど、強圧的な行動で悪名を高めた。代表的な事件の一つが、1920年12月のコーク市中心部の焼き討ちである。 重要なのは、ブラック・アンド・タンズの強硬な弾圧が、IRAを弱体化させるだけでなく、むしろアイルランド国内外の反英感情を強め、イギリス政府への国際的批判を高める結果にもなったことである。 | |||
| 11/12 | 15人のエリート諜報員カイロ・ギャング コリンズの12使途に暗殺される 「カイロ・ギャング(Cairo Gang)」とは、アイルランド独立戦争中、IRAやマイケル・コリンズの情報網を摘発するためにダブリンで活動していたイギリス側の情報要員・諜報員グループを指す通称である。ただし、メンバー数や「カイロ・ギャング」という呼称の由来には諸説があり、厳密な公式組織名ではない。 これに対してマイケル・コリンズは、IRA内部に「スクワッド(The Squad)」と呼ばれる暗殺部隊を組織していた。この部隊は俗に「十二使徒(Twelve Apostles)」とも呼ばれた。 1920年11月21日の朝、コリンズの指示を受けたIRA部隊がダブリン市内各所でイギリス側情報要員を一斉襲撃し、十数人を殺害した。これによりイギリスの諜報網は大きな打撃を受けた。 そして同じ日の午後、ダブリンのクローク・パークで行われていたゲーリック・フットボールの試合会場に治安部隊が入り、観客に発砲し、多数の死傷者を出した。 | ||||
| 同日午後、血の日曜日Blody Sunday事件 ブラック・アンド・タンズが、 クロークパークでゲイリックフットボール試合中の選手と観客に発砲 | |||||
| デ・ヴァレラ米国より帰国 | |||||
| デ・ヴァレラ、カスタムハウス攻撃を指示 | |||||
| 1921 | 6/29 | ロイド・ジョージ、デ・ヴァレラに休戦申し出 デ・ヴァレラ、ロンドンに向かう | |||
| 7/11 | 独立戦争休戦協定 | ||||
| 10/11 | グリフィス、コリンズ渡英 | ||||
| コリンズ渡英中、アラビアのロレンスと会い IRAにゲリラ戦の訓練を要請 チェーチルの横やりで座礁 | |||||
| 12/6 | 和平条約調印 | ||||
| 1922 | 1/7 | アイルランド国民議会、条約批准 64票対57票 | |||
| 6/28 | Civil War コリンズ指揮する自由国政府軍が、共和派を攻撃 | ||||
| 8/22 | マイケルコリンズ暗殺される 享年31 | ||||
| 総選挙でIRAを排除 | |||||
| 9 | ゴスグレーブ内閣 アイルランド自由国成立直後の政権。 コスグレイヴは1880年生まれ、1965年没。1922年、英愛条約に基づいてアイルランド自由国(Irish Free State)が成立すると、その最初の政府首班となった。正式には「行政評議会議長(President of the Executive Council)」であり、現在の首相にあたる地位である。 彼の政権は1922年から1932年まで続いた。最大の課題は、英愛条約をめぐって勃発したアイルランド内戦(1922~1923年)を終結させ、新国家の統治機構を整えることであった。 コスグレイヴは英愛条約支持派であり、マイケル・コリンズの路線を引き継いだ人物と位置づけられる。内戦では反条約派に対して厳しい姿勢をとり、処刑を含む強硬な治安政策を実施した。 内戦終結後は、行政、司法、警察、財政などの国家制度を整備し、アイルランド自由国を安定させることに力を注いだ。また、国際連盟への加盟などを通じて、アイルランドの国際的地位を高めた。 しかし、1932年の総選挙でデ・ヴァレラ率いるフィアナ・フォイルに敗れ、政権を譲った。 | ||||
| 12/6 | 憲法制定、アイルランド自由国発足 | ||||
| 12/8 | IRA、都市ゲリラ戦開始 | ||||
| ゴスグレーブ、IRAを大弾圧 | |||||
| 1923 | 5 | デ・ヴァレラは音をあげ、IRAは武器を隠す(dump) Civile War 休戦 | |||
| 1929 | 大恐慌 ゴスグレーブ内閣人気を落とす IRA活動再開 | ||||
| 1931 | ウェストミンスター憲章 イギリス本国と自治領内の対等な関係を定義 | ||||
| 1932 | 2 | 総選挙 デ・ヴァレラの連立が多数派を占め、 自由国首相就任 1916年のイースター蜂起、独立戦争、英愛条約反対運動を経て、1926年にフィアナ・フォイルを結成した。1932年の総選挙でコスグレイヴ政権を破り、政権を獲得した。 首相在任は長く、 1932~1948年 1951~1954年 1957~1959年 である。 彼の最大の特徴は、武力革命ではなく議会政治を通じて、イギリスとの制度的な結びつきを段階的に弱めたことにある。1930年代にはイギリス国王への忠誠宣誓を廃止し、総督の権限を縮小するなど、アイルランド自由国の主権を強化した。 さらに1937年に新憲法を制定し、国名を「Éire(エール)」または「Ireland」と定めた。これによって、1922年のアイルランド自由国体制から、より独立性の強い国家体制へ移行した。 第二次世界大戦では、アイルランドは中立政策を採用した。これはイギリスから独立した国家としての自主性を示す意味も持っていた。 その後、デ・ヴァレラは1959年に首相を退き、アイルランド大統領となった。 | |||
| 1937 | 12/29 | 自由国が新憲法発布して、エール共和国と改称 | |||
| 1938 | 4/25 | イギリス・エール協定 イギリスがアイルランド独立を承認 | |||
| 1949 | 4/18 | エール共和国、イギリス連邦から正式独立 アイルランド共和国となる 1949年の共和国成立そのものはデ・ヴァレラ政権ではなく、ジョン・A・コステロ政権下 | |||
Newgrange (The World Heritage)

Hill of Tara
アイルランドには、統一国家が成立した記録はない。
伝説上のタラがイングランドからのアイルランド独立、統一国家成立の象徴となり、
「return to Tara」は、アイリッシュとしてのアイデンティティを表す言葉となる。

Dublin Castle


Dublin University-Trinity Castle

The battle of Boyne River

William Ⅲ (1650-1702)
This chair was used by King William III when he came back to St. Patrick’s to give thanks to God for his victory over King James at the battle of Byne, 1690.

Jonathan Swift

Swift’s famous epitaph in Latin was written by himself.
Translation as follows:

神学博士で、この大聖堂の大主教、ジョナサン・スウィフトここに眠る。
激しい怒りももはやその心を引き裂くことはできまい
旅人よ、行って、できることならば、真似るがよい
最も情熱的で、献身的な自由の勝利者を

St. Patric Hospitl
(the oldest Mental Hospital in Europe)


Wellinton, A.W (1769-1852)
Wellinton Monument dedicated to Duke Wellinton in Phoenix Park
ウェリントンは、ダブリン生まれを卑下
「馬屋で生まれても馬になるとは限らない」(Wellinton)

Wall painting of Waterloo

inside of GPO(Generel Post Office)
where was occupied by IRB(Irish Republican Brotherhood)in the Easter Rising 1916



Pro-Treaty Michael Collins vs Antni-Treaty De Valera

Anti-Treaty Postcard
Lloyd George with Puppets of Arthur Griffith and Michael Collins

Four Courts
(Headquarter of IRA during Civil War, rebuilt by 1932)


Dynasty un UK

| トーリー | ||
| 17世紀中頃、クロムウェルのアイルランド侵攻により、土地を追われて追い剥ぎになったアイルランド人。 ジェームズ2世の支持者への別称として、敵対勢力のホイッグ党がこの言葉を使い、 その後、トーリーは、ひろく王党派をさすようになる。 | ||
| アイルランドは比叡山 | ||
| セント・パトリックが渡愛以降、修道院が発展。西ローマ帝国滅亡後、アイルランドから多数の宣教師がブリテン島やヨーロッパに渡る。16世紀、突然、ブリテン島がカトリックと縁を切る。 | ||
| 宗教改革 改宗は難しく、ときに戦争になることはわかる。 しかし、宗教改革時、いつか誰かが旧教から新教に改宗しているはず。その時点での軋轢は? | ||
| 解答 | ||
| なぜ、審査律(Test Act)が、王政復古時のカトリック教徒チャールズ2世のもとで制定されたのか? | ||
| 解答 議会が、ジェームズ1世の旧教化政策に対抗して制定。この法案が、旧教徒であるアイリッシュを苦しめることになる。 | ||
1832年、選挙法改正後、トーリーが保守党に改称
1830年代、ホイッグが近代政党へと脱皮する過程で自由党と改称