3 Nov, 2005


| Chaplin | Age | Hitler | 杉原千畝 | Anne Frank | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1889 | 4/16 | 誕生 | 4/20 | 誕生 | ||||||
| 1890 | 両親離婚 | |||||||||
| 1899 | 10 | |||||||||
| 1891 | 11/15 | ロンメル誕生 | ||||||||
| 1900 | 10 | 1/1 | 誕生 | |||||||
| 1903 | 厳しかった父を亡くす | |||||||||
| 1905 | 実業学校退学 | |||||||||
| 1907 | 母を亡くす | |||||||||
| 1908 | カーノー劇団入団 | 19 | ||||||||
| 1909 | 20 | |||||||||
| 1913 | ウィーンからミュンヘンへ移住 | |||||||||
| 1914 | 「成功争い」映画デビュー | 26 | ドイツ帝国志願兵としてWWⅠ参戦 | |||||||
| 「ベニスの子供用自動車レース」 放浪紳士登場 | ||||||||||
| 1919 | Weber(65), Politik Als Beruf | 30 | ||||||||
| 1919 | 映画会社United Artists設立 | ハルビン派遣 | 19 | |||||||
| 1920 | Weber(66) 没 | 31 | 1/10 | ベルサイユ条約批准 | ||||||
| 1920 | 党務専心 | |||||||||
| 1921 | 「キッド」 | 32 | ナチ党首 | |||||||
| 1923 | 34 | 11/9 | ミュンヘン一揆 | |||||||
| 投獄 『我が闘争』 | ||||||||||
| 1924 | 12/20 | 釈放 | ||||||||
| 1925 | 「黄金狂時代」 | 36 | ||||||||
| 20年代後半、ベルリン訪問 | ||||||||||
| 1926 | 『ソヴィエト聯邦國民経済大観』刊行 | |||||||||
| 1929 | 40 | 大恐慌 | 6/12 | 誕生 | ||||||
| 1931 | 「街の灯」 | 42 | ||||||||
| 1932 | 満州国建国 (32) | |||||||||
| 1933 | 1/30 | 首相 | フランクフルトから アムステルダムへ移住 | |||||||
| 2/27 | 国会議事堂放火事件 | |||||||||
| 選挙結果 ナチ党43.9% | ||||||||||
| 3/21 | 新内閣発足(連立政権) | |||||||||
| 3/24 | 全権委任法 | |||||||||
| 6/30 | 政敵を一掃、独裁体制を固める | |||||||||
| 1934 | 45 | 6/14 | ムッソリーニと初会見 | |||||||
| 8/2 | ヒンデンブルグ大統領没 | |||||||||
| 国民投票により大統領と首相を統合した総統に | ||||||||||
| 1935 | 満州国外交部退官(35) | |||||||||
| 1936 | 「モダン・タイムズ」 | 47 | ||||||||
| 8/1- | ベルリンオリンピック イギリス選手のみがヒトラー敬礼を拒否 | |||||||||
| 1938 | 49 | この年、ロイド・ジョージがヒトラーを訪ねる | ||||||||
| 9 | ミュンヘン会談(宥和政策) | |||||||||
| 11/9 | 水晶の夜(クリスタル・ナハト) | |||||||||
| 1939 | 50 | 1月 | リトアニアの在カウナス領事館・領事代理 | |||||||
| 1939 | 9/1 | ポーランド侵攻でWWⅡ | ||||||||
| 1940 | 「独裁者」 | 51 | 6/14 | アウシュビッツに初の収容 | 7/18 | 命のビザ発給 (40) | ||||
| 8/29 | 日本領事館閉鎖 | |||||||||
| 51 | 7/31 | 国防軍最高司令官 | ||||||||
| 1941 | 6/22 | 独ソ戦 3:15 独の奇襲攻撃 | ||||||||
| 12/8 | 真珠湾攻撃 | |||||||||
| 12/11 | アメリカに宣戦布告 | |||||||||
| イタリア降伏 | ||||||||||
| 1942 | 「黄金狂時代(サウンド版)」 | 1/20 | ユダヤ人問題最終的解決(ヴァンゼー会議) | |||||||
| 6/12 | 誕生日に日記をプレゼントされ、 日記を書き始める | 13 | ||||||||
| 6/28 | スターリングラード攻防戦始まる | |||||||||
| 11/4 | エル・アラメインからロンメル撤退 | |||||||||
| 1943 | 1/31 | スターリングラード攻防戦、独降伏で終了 | ||||||||
| 6 | ガス室の使用をはじめる(-44/11) | |||||||||
| 4/13 | ワルシャワゲットー蜂起 | |||||||||
| 5/16 | ゲットー蜂起鎮圧される | |||||||||
| 1944 | 6/6 | Dデイ | ||||||||
| 7/20 | ヒトラー暗殺未遂事件 | |||||||||
| 8/1 | ワルシャワ蜂起 | 8/1 | 日記最終日 | |||||||
| 8/4 | 連行される | |||||||||
| 10/3 | ワルシャワ蜂起鎮圧される | |||||||||
| 10/14 | ロンメルに服毒自殺強要 | |||||||||
| 1945 | 1/30 | 最後のラジオ演説 | ||||||||
| 3月 | 焦土命令 | 2月末から3月半ば、死亡 | 15 | |||||||
| 4/29 | エヴァ・ブラウンと結婚 | |||||||||
| 56 | 4/30 | エヴァ・ブラウンと共に自殺 | ||||||||
| 5/5 | オランダ解放 | |||||||||
| 1947 | 「殺人狂時代」 | 58 | ||||||||
| 1949 | 60 | |||||||||
| 1950 | 3月 | マッカーシーによる「国務省内に 共産党員スパイ網あり」との爆弾発言 レッドパージ始まる | ||||||||
| 6/25 | 朝鮮戦争勃発 | |||||||||
| 1952 | 「ライムライト」 | 63 | ||||||||
| アメリカから国外追放 | ||||||||||
| 1959 | 70 | |||||||||
| 1972 | アカデミー特別賞受賞のためアメリカ訪問 | 83 | ||||||||
| 1969 | 80 | イスラエル宗教大臣と再会(69) | ||||||||
| 1975 | ナイトに叙勲 | |||||||||
| 1977 | 没 | 88 | ||||||||
| 1981 | ゲルハルト・ダンプマン『孤立する大国ニッポン』 | |||||||||
| 1985 | 1/18 | ヤド・ヴァシェム賞 | ||||||||
| 1986 | 7/31 | 没(86) | ||||||||
| 1990 | 杉原幸子『六千人の命のビザ』 | |||||||||
| 1992 | NHK「命のビザ」 | |||||||||
| 2000 | 10/10 | 河野外務大臣謙称演説 |




| — 2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説 これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。 不遇の後半生から顕彰へ (wikipedia) 「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。こうした外務省の姿勢に真っ先に抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。ダンプマンは、旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務め、1974年から1981年まで東京に在住していた。千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と、ダンプマンは抗議したのである。それは、千畝がまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない、1981年(昭和56年)のことであった。 1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。 同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男・伸生(のぶき)が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。 終わらざるドラマ 千畝が好きだったピアノ・ソナタ「月光」をモチーフにしたヴィリニュスの記念モニュメント(作・北川晶邦) 千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列[94]。通夜には、一人の男性が新聞で知ったということで訪ねて来た。その男性は肉体労働をしているらしい様子で、紙には千円札がきちんとたたまれており、幸子夫人に紙に包んだ香典を渡すと、名前を聞いても言わずに帰って行った[95]。千畝は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園(29区5側)に葬られた。杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を幸子夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた。 日本政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだった。 |