酒田

2022年8月11日訪問
日本海ヘルスケアネットワーク
再訪2023年8月22日
秋田からの帰路

明治天皇は、いつ酒田を訪れ、宿泊地はどうして本間家ではなかったのか?

渡辺作左衛門のビジネスはなんだったのか?

明治天皇の東北・北海道巡行 明治14年(1881年)――ワッパ騒動(1873~78年頃)

7月30日 東京出発
→ 草加 → 幸手 → 小山 → 宇都宮 → 佐久山 → 芦野
福島県
→ 須賀川 → 二本松 → 福島
宮城県
→ 白石 → 岩沼 → 仙台(8月12日)
→ 古川 → 築館
岩手県
→ 磐井 → 水沢 → 花巻 → 盛岡 → 沼宮内 → 一戸
青森県
→ 三戸 → 八戸 → 三本木 → 野辺地 → 青森(8月27日)
北海道
→ 軍艦「扶桑」で小樽へ
→ 小樽 → 札幌 → 千歳 → 白老 → 室蘭 → 森 → 函館
→ 9月7日に青森へ戻る
帰路・青森~秋田
→ 弘前 → 蔵館 → 大館 → 二ツ井 → 能代 → 一日市 → 土崎港 → 秋田
→ 境 → 角間川 → 湯沢 → 下院内
山形県
→ 9月22日県境を越えて及位 → 金山 → 新庄
→ 9月23日 清川
→ 9月24日 鶴岡
→ 9月25日 酒田
→ その後再び清川方面へ戻り、内陸へ
→ 山形 → 上山 → 米沢(10月2日)
そこから福島方面を経て東京へ戻り、10月11日還幸しました

明治天皇は、いつ酒田を訪れ、宿泊地はどどうして本間家ではなかったのか?

明治天皇が酒田を訪れたのは、明治14年(1881年)9月25日です。宿泊した行在所は、本間家ではなく、渡辺(渡部)作左衛門宅でした。現在の酒田市本町公園付近です。(アデアック)

では、なぜ酒田随一の豪商だった本間家ではなかったのか。ここは少し政治的な事情があったようです。

当初は、実際に本間光輝の旧邸宅、さらに本間家の別荘が行在所候補になっていました。その後、琢成学校、飽海郡役所へと候補が変わり、最終的に渡辺作左衛門宅に決まっています。つまり、最初から本間家を避けていたわけではありません。(歴史キュレーター)

表向きの理由としては、本間家別荘などが「狭隘」だったことが挙げられています。しかし、この点を研究した山形大学の論考では、「狭い」というだけでは十分な説明にならないとしています。実際、巡幸中にはもっと狭い行在所も使われていたからです。(山形大学 人文社会科学部)

そこで重要になるのが、当時の山形県令三島通庸と庄内の政治状況です。本間家は旧庄内藩以来の巨大な経済勢力であり、旧藩士層とも深い関係を持つ「旧勢力」の一角でした。しかも、1870年代のワッパ騒動では、本間家を含む旧来の有力者層と県政との関係が政治問題になっていました。これに対して渡辺作左衛門は、明治になって急速に台頭した新興商人で、三島県令や中央政府の有力者との関係を深めていました。(山形大学 人文社会科学部)

したがって研究者の解釈では、三島県政から見ると、

旧庄内藩・本間家という旧来の権力構造から距離を置き、新興勢力の渡辺作左衛門を登用する

という政治的意味もあったのではないか、ということになります。渡辺は行在所指定を受けると、6,450円ほどの巨費を投じて邸宅を大改造しました。当時としては驚くほどの金額です。(アデアック)

ですから、「本間家の家が狭かったから」という単純な話よりも、

本間家=旧庄内の既成勢力
渡辺作左衛門=明治新政府・三島県政に近い新興勢力

という、明治初期の庄内における権力交代の象徴として見ると、かなり面白い出来事です。

これは、明治天皇の地方巡幸そのものが、単なる地方旅行ではなく、新しい明治国家の権威を地方社会に浸透させる政治的イベントだったこととも関係していると思います。(山形大学 人文社会科学部)

ちなみに渡辺作左衛門は、この行在所整備などに巨費を投じた後、ほどなく経営が傾き、明治16年(1883年)には亡くなっています。一代で本間家をしのぐほどの勢いを示した人物でしたが、その絶頂期に明治天皇を迎えた、ということになります。(アデアック)

渡辺作左衛門のビジネスはなんだったのか?

渡辺作左衛門の中心的なビジネスは、米商いです。しかも単なる米屋ではなく、明治初期の酒田でかなり大規模な米穀流通・倉庫・金融を組み合わせた事業を展開していました。

酒田市立図書館の資料によると、渡辺は西荒瀬村の出身で、豪農・渡辺作左衛門家の養子となった後、酒田で米商を営みました。そして、旧庄内藩が所有していた新井田倉庫を買い占め、「米券」を発行しています。つまり、倉庫に預けた米を裏付けに証券を発行して流通させるような、当時としてはかなり金融的な商売まで手掛けていたわけです。(アデアック)

この事業が非常にうまくいった時期には、資料に「本間家をしのぐ程の経済的勢いがあった」と書かれるほどでした。(アデアック)

ただし、急速な事業拡大にはかなりのリスクがありました。明治天皇の行在所に選ばれると、邸宅改築だけで6,450円という巨額を投じ、その負担に事業拡大の失敗が重なります。結果、明治15年(1882年)には倒産し、新井田倉庫も共同運輸会社、さらに三菱、日本郵船へと所有が移っていきました。(アデアック)

なので渡辺を現代風に言うなら、「米穀商+倉庫業+商品金融」まで手掛けた新興実業家と見るのが近いです。

本間家が土地・金融・米穀などを長期間にわたって安定的に経営した旧来の巨大資産家だったのに対し、渡辺は明治維新後の制度変化を利用して一気に膨張した新興企業家という対照が面白いところです。だからこそ、明治天皇の酒田行在所が渡辺宅になったことには、当時の酒田社会における「旧勢力=本間家」と「新興勢力=渡辺」の交代を象徴する面があった、と考えることができます。

ワッパ騒動

ワッパ騒動は、明治初期の庄内地方で起きた大規模な農民運動・政治運動です。時期は主に1873年(明治6年)ごろから1878年(明治11年)ごろにかけてで、旧庄内藩領を中心に広がりました。

名前の「ワッパ」は、庄内地方で使われた曲げ物の弁当箱のことです。農民たちが集会や請願運動の際に弁当を持参したことから、「ワッパ騒動」と呼ばれるようになったとされています。

背景には、明治維新後の庄内で、旧藩時代から続く年貢・租税負担や、旧藩当局・地主・豪商層に対する不満がありました。とくに問題となったのは、戊辰戦争後の処理や年貢の精算、明治政府の地租改正をめぐる負担、旧庄内藩の財政処理などです。農民側は「自分たちは不当に多く取られているのではないか」と考え、帳簿の公開や返還を要求しました。

特徴的なのは、単なる暴動ではなく、帳簿を調べ、計算し、請願書を作り、行政に説明を求める運動だった点です。庄内の農民たちは、旧藩の会計に不正があったとして、詳細な収支の公開を要求しました。このため、ワッパ騒動はしばしば、近代日本初期の「納税者による行政監視運動」のようにも評価されます。

最終的には政府が調査に入り、農民側の主張の一部が認められ、旧藩側から多額の返還が行われました。したがって、農民運動としてはかなり珍しく、一定の成果を上げた事件です。

そして、先ほどの本間家の話との関係が面白いです。本間家は旧庄内藩の財政や地域経済と非常に深く結びついていたので、ワッパ騒動は単なる「農民対政府」ではなく、

農民
対
旧庄内藩の支配層・豪農・豪商・既存の地域権力

という構図も持っていました。

その意味では、明治天皇の巡幸で本間家ではなく新興実業家の渡辺作左衛門宅が行在所になったことも、ワッパ騒動後の庄内で旧勢力から距離を取ろうとする明治政府・県政の姿勢と重ねて見ることができます。

東北・北海道巡行

はい。酒田に来た明治14年(1881年)の巡幸は、**「東北・北海道巡幸」**と呼ばれる大旅行で、東京を出て東北を北上し、北海道を回ったあと、秋田・山形を南下して東京へ戻る、74日間の行程でした。7月30日に東京を出発し、10月11日に還幸しています。(レファレンス協同データベース)

主な宿泊地を追うと、だいたい次のようになります。

  • 7月30日 東京出発
    → 草加 → 幸手 → 小山 → 宇都宮 → 佐久山 → 芦野
  • 福島県
    → 須賀川 → 二本松 → 福島
  • 宮城県
    → 白石 → 岩沼 → 仙台(8月12日)
    → 古川 → 築館
  • 岩手県
    → 磐井 → 水沢 → 花巻 → 盛岡 → 沼宮内 → 一戸
  • 青森県
    → 三戸 → 八戸 → 三本木 → 野辺地 → 青森(8月27日)
  • 北海道
    → 軍艦「扶桑」で小樽へ
    → 小樽 → 札幌 → 千歳 → 白老 → 室蘭 → 森 → 函館
    → 9月7日に青森へ戻る
  • 帰路・青森~秋田
    → 弘前 → 蔵館 → 大館 → 二ツ井 → 能代 → 一日市 → 土崎港 → 秋田
    → 境 → 角間川 → 湯沢 → 下院内
  • 山形県
    → 9月22日県境を越えて及位 → 金山 → 新庄
    → 9月23日 清川
    → 9月24日 鶴岡
    → 9月25日 酒田
    → その後再び清川方面へ戻り、内陸へ
    → 山形 → 上山 → 米沢(10月2日)
  • そこから福島方面を経て東京へ戻り、10月11日還幸しました。(山形大学 人文社会科学部)

北海道では、8月30日に小樽へ上陸して鉄道で札幌に入り、札幌では豊平館に3泊しています。その後、千歳・白老を経て室蘭、船で森、さらに函館へ進み、9月7日に本州へ戻りました。(ashiribetsu-museum.com)

酒田は帰路だった

ここが重要です。

明治天皇は東京からいきなり酒田へ向かったわけではなく、

東京 → 太平洋側の東北を北上 → 北海道 → 青森 → 秋田 → 山形

という大きな時計回りのルートをとっています。

したがって酒田は、巡幸のかなり後半、出発から約2か月後に立ち寄った場所です。9月24日に鶴岡に泊まり、25日に酒田の渡辺作左衛門宅に宿泊、翌26日に酒田を発っています。(山形大学 人文社会科学部)

もう一つ興味深いのは、この1881年巡幸は、1876年(明治9年)の東北巡幸で十分に回れなかった秋田・山形を重要な目的地として組み込んだ巡幸だったことです。弘前市史でも、明治14年の再巡幸は「前回対象から外れた秋田、山形を主として計画」とされています。(アデアック)

ですから、酒田・鶴岡は単なる帰り道の寄り道ではなく、この巡幸の重要な目的地の一つだったと考えた方がよさそうです。

必要なら、次に**「1881年の明治天皇巡幸を、日付入りで7月30日から10月11日まで毎日一覧表」**にしてみます。これを見ると、当時としては驚くほどの強行日程だったことが分かります。