賤ヶ岳古戦場

2002年5月25日

賤ヶ岳山頂から見る余呉湖

本能寺の変から賤ヶ岳の合戦まで

天正10年1582年6/2本能寺の変
6/6夕4日後秀吉、全軍を率いて高松城攻めの陣地を出発。
6/75日後秀吉、姫路着。
6/1311日後天王山 山崎の戦い。光秀、坂本へ撤退中、小栗栖(京都市)で野武士らに襲われ自刃。
6/1412日後秀吉、光秀の首級を本能寺にさらす。
6/2725日後清洲会議
羽柴秀吉(46)柴田勝家(61)丹羽長秀(47)池田恒興(46)
天正11年1583年4/2010ヶ月と18日後賤ヶ岳の合戦
4/24柴田勝家自害。
  「夏の世の夢路はかなき跡の名を
            雲井にあげよ山ほととぎす」
天正12年1584年4/91年10ヶ月と7日後長久手の戦いで、池田恒興戦死

賤ヶ岳合戦時の関連人物の年齢

羽柴秀吉47*勝家62*
丹羽長秀48前田利家45
池田恒興47
ねね*34まつ35
お市の方36
徳川家康40
佐々成政47茶々、淀殿14

*:本当は生年不詳

羽柴秀吉、二度目の大返し(美濃大返し)

4/20午前1時織田信孝を牽制するために大垣城に向かったため、長浜に秀吉不在の情報を得た勝家軍は、勝家の姉妹の子である甥、佐久間盛政の進言を受け入れ、大岩山砦を急襲する奇襲作戦を開始した(中川清秀討ち取られる)。
大岩山砦は佐久間盛政隊の手に落ちた。のみならず、岩崎山をも難なく占拠(高山右近敗退)。賤ヶ岳を秀吉から任されている桑山重晴も、佐久間盛政からの降伏勧告に対して、日没後に砦を明け渡すと約束した。
佐久間盛政の奇襲部隊は、予想以上の成果を得て初期の目的を達成した。
佐久間と勝家との間の事前の作戦では、佐久間隊は直ちに撤収する手はずであった。盛政もおそらくそのつもりであったろう。だが、大岩山、岩崎山の両砦を奪い、賤ヶ岳もほぼ掌中にした今、盛政は、大垣で足止めを食らっている秀吉が帰陣する前に一気に決着をつけることができると考える。
そして、勝家の帰陣命令に対して、「兵は疲労しきっているので、今夜はこのまま駐屯したい」と無視する。秀吉の早朝帰陣を危惧する勝家は、6回にもわたって使者を派遣、撤収を促した。最後の命令は、怒りの感情もあらわなものだった。「もし、命令をきかないのなら、わしが行って兵を撤収する!」。しかし、盛政は、この命令も無視。やがて日も落ち、佐久間隊は大岩山にいすわりつづけることになった。
この間、桑山重晴を幼少期から知っている丹羽長秀が、賤ヶ岳に入る。そして、桑山重晴は、佐久間盛政への降伏を覆す。
正午頃大垣城にあった秀吉が、大岩山、岩崎山の両砦陥落の急報を得る。このとき食事中だった秀吉は、思わず箸を取り落とし、「われ、勝てり」と叫んだと諸書は伝えている。
勝家の突出部隊を強襲し、敗走するところを追撃して、それを収容しようとする敵本体をも撃破する作戦をたてる。
健脚の兵50名を選抜して先行させ、木之本までの沿道に松明と食料を並べるように手配させる一方、出発の準備を命じた。
午後2時秀吉が近侍の数騎とともに大垣を発したのは午後2時頃。そのあとに1万5千の大部隊がつづく。午後4時過ぎには最後の舞台も大垣を発した。大垣からは垂井、関ヶ原、藤川、小谷、木之本とひた走りに走りつづける。
日が落ちるとたいまつに火がつけられた。その火を頼りに、沿道に並べられた握り飯をほおばりつつ、駆ける、駆ける。
一瞬の停滞もなく、疾駆する軍勢。早くも9時には、全部隊が木之本に駆け込んでいた。
大垣ー木之本間の距離は13里(約52㌔)。それを5時間で駆けた。時速10.5㌔。まさに常識はずれの神速というほかはない。
4/21午前2時頃秀吉軍、総攻撃。
賤ヶ岳七本槍:福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
前田利家の勝家からの離反。
正午頃には勝家方は崩壊。利家は府中へ、勝家は北ノ庄へ。
賤ヶ岳(滋賀・長浜)
↓ 北へ約50〜60km
越前府中(現在の福井県越前市・武生付近)
↓ 北へ約20km
北ノ庄(現在の福井市中心部)
4/22利家が退却した府中を秀吉が攻め、利家、降伏。
4/23北ノ庄総攻撃
利家、秀吉方として参戦
4/24勝家は、お市の方とともに自害。
5/12佐久間盛政は敗走後に捕らえられ、京都で処刑。享年30。

賤ヶ岳からみる木乃本(羽柴秀長陣地)方面

賤ヶ岳からみる琵琶湖方面

賤ヶ岳に登るリフト