2026年8月13日
二ツ井今泉道路の「きみまち阪IC~北秋田今泉IC」間―― 2026年3月20日午後3時に開通、延長は約4.5kmで、国道7号の現道、とくに冬場に事故が多かった区間を迂回する自動車専用道路。
道の駅 ふたついきみまちの里は、2018年7月15日にグランドオープン。
道の駅ふたついきみまちの里
きみまちの阪
| なぜ、きみまちの阪? |
| 名前そのものが明治天皇と皇后の「恋文」に由来するんです。 1881年(明治14年)、明治天皇が東北・北海道巡幸の途中で二ツ井を訪れました。その際、長旅を案じた皇后からの手紙がこの地で天皇を待っていた、と伝えられています。翌1882年、天皇はこの景勝地に **「きみまち阪」**という名を付けるよう命じたとされています。観光庁の解説では、「君を恋しく思う坂」という意味合いで紹介されています。(国土交通省) つまり、 「君を待つ」+「君を想う」 という二重のニュアンスがあるわけですね。だから、後世になって二ツ井が**「恋文のまち」**を掲げるようになり、「恋文ポスト」なども設置されています。(国土交通省) しかも面白いのは、もともと単なる観光キャンペーンで後から作ったロマンティックな名前ではなく、明治時代からの由緒があることです。 なお、古い表記は 「徯后阪(きみまちざか)」 とされ、「徯(けい)」には「待つ」という意味があります。要するに文字通り、**「君を待つ坂」**ですね。(秋田県庁コモンサイト) これはかなり良い地名です。今の「きみまち阪」というひらがな表記にすると、意味を説明されなくても妙にロマンティックに響きます。 |
| なぜ、明治天皇は訪れた? |
| 明治天皇が二ツ井だけを目的に訪れたわけではなく、1881年(明治14年)の「山形・秋田・北海道巡幸」の途中で通ったのです。これは明治天皇のいわゆる「六大巡幸」の一つで、山形・秋田を経て北海道へ向かう大規模な地方巡幸でした。(国立公文書館) 背景には、明治政府が成立して間もない時期に、天皇自身が地方を回って民情や産業、道路などの実情を見て、新しい国家と地方との結びつきを強めるという政治的意味がありました。秋田・山形はそれまで本格的な巡幸がなく、地元側からも訪問への期待が強かったとされています。(Toyoma Date) そして二ツ井は、当時の秋田から青森方面へ抜ける街道上にありました。明治天皇の巡幸に備えて、現在のきみまち阪付近では急峻だった道を新たに開削し、藤琴川に橋まで架けています。つまり、いま私たちが景勝地として見る「きみまち阪」の道そのものが、かなりの部分、明治天皇の巡幸を契機に整備されたわけです。(国土交通省) 面白いのは、その国家的・政治的な巡幸の途中で、皇后からの私的な手紙が届いたことです。そこで景色を眺めながら手紙を読んだという逸話が、「きみまち阪」という非常にロマンティックな地名につながった。(秋田県庁コモンサイト) ですから、 近代国家形成のための巡幸 → 二ツ井を通るため道路整備 → 皇后の手紙が届く → きみまち阪 という流れです。 国家形成というかなり硬い歴史の中から、偶然あの柔らかな名前が生まれた、と考えると面白い場所ですね。 |
| 羽州街道 |
| **羽州街道(うしゅうかいどう)**は、江戸時代に整備された東北の主要街道で、奥州街道と並ぶ東北の大動脈でした。(秋田市公式サイト) ルートは、現在の福島県桑折(こおり)で奥州街道から分かれ、宮城県七ヶ宿を経て奥羽山脈を越え、山形―新庄―秋田―大館と北上し、青森の油川方面まで続きました。現在の道路でいえば、概ね山形県内は国道13号、秋田市以北は国道7号に重なります。(道路交通情報提供システム) ですから、さきほどの二ツ井の話との関係でいうと重要で、秋田から二ツ井・大館方面へ北上する現在の国道7号のルートは、羽州街道の系譜にあると考えると分かりやすいです。県北でも羽州街道は大館方面へ向かっていました。(道路交通情報提供システム) 要するに、 江戸時代:羽州街道 → 明治以降:主要国道へ → 現在:国道7号・13号+秋田自動車道など という交通軸の連続性があります。 だから、1881年に明治天皇が秋田から二ツ井を経て北へ向かったルートも、基本的にはこの江戸以来の交通軸を利用していたわけです。 ちなみに「羽州」は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の別称です。つまり「羽州街道」とは、文字通り出羽国を縦断する街道という意味です。(秋田市公式サイト) 二ツ井との関係を追うなら、次に**「羽州街道は二ツ井のどこを通っていたのか」**を見ると、きみまち阪の位置関係がかなりよく分かります。 |
| どうして、奥州街道から羽州街道が分岐した? |
| 要するに、奥州街道だけでは出羽国(山形・秋田)へ行くには東に寄りすぎていたからです。 奥州街道は、江戸から白河を経て、福島盆地から仙台―盛岡―青森へと太平洋側を北上する幹線でした。一方、山形・秋田へ向かうには、福島県の桑折付近から西へ折れ、奥羽山脈を越えて山形盆地―新庄―秋田へ入るルートの方が合理的です。そこで桑折が「追分」、つまり分岐点になりました。(郡山市町ホームページ) 江戸時代にこの道が重要になった最大の理由は、出羽諸藩の参勤交代です。山形・新庄・久保田(秋田)などの大名に加え、弘前藩まで含めた多くの大名が羽州街道を利用しました。また幕府領の米の輸送、出羽三山への参詣、物資交易にも使われました。(まっぷるウェブ) 地理的に見ると、かなり分かりやすいです。 江戸 ↓ 福島 ↓ 桑折 ↙︎ ↘︎ 羽州街道 奥州街道 山形 仙台 ↓ ↓ 秋田 盛岡 ↓ ↓ 弘前 青森 そして面白いことに、羽州街道は最後は青森の油川で再び奥州街道に合流します。つまり、東北を南北に貫く道路が、桑折で「太平洋側ルート」と「日本海・出羽側ルート」に分かれ、青森でまた合流するような構造です。(ウシュカイド) ですから、先ほどの二ツ井もこの西側の大幹線の上にあるわけです。現在の国道13号→国道7号、さらに秋田自動車道へと、交通の軸そのものは江戸時代からかなり連続しています。 |
| 羽州街道を通った歴史上の人物は? |
| かなり多いです。羽州街道は、久保田藩(秋田藩)など出羽・津軽方面の諸大名の参勤交代の幹線でしたから、まず歴代の佐竹氏や津軽氏などが繰り返し通っています。国立国会図書館系の資料でも、久保田藩など東北諸藩の参勤交代路として確認できます。 (ジャパンサーチ) 個人名で挙げるなら、特に面白いのは次のあたりです。 明治天皇 — 1881年の東北巡幸で秋田を通り、二ツ井方面へ北上しました。先ほどの「きみまち阪」の話につながります。 吉田松陰 — 1852年、東北を遊歴して会津・新潟・秋田・津軽方面を巡っています。『東北遊日記』を残しており、津軽まで北上した旅は羽州街道沿いの地域とも重なります。 (子どもポータル) 松尾芭蕉 — 『おくのほそ道』の旅で出羽を歩いています。ただし注意が必要で、羽州街道を江戸から秋田まで縦断したわけではありません。山形県内では羽州街道沿い・周辺の場所を通った部分があります。山形県も猿羽根峠周辺に芭蕉らが訪れたことを紹介しています。 (やまがた景観物語) 歴代の久保田藩主・佐竹氏 — 江戸と秋田を往復する参勤交代で、羽州街道の代表的利用者です。 (ジャパンサーチ) 弘前藩主・津軽氏 — 弘前から江戸への参勤交代でも羽州街道を利用したため、秋田県北部の二ツ井・大館方面を通る大名行列もありました。 (ジャパンサーチ) ですから、二ツ井を実際に通った可能性が高い歴史的人物に絞ると、松尾芭蕉よりも、 佐竹氏の歴代藩主 → 津軽氏の歴代藩主 → 吉田松陰 → 明治天皇 あたりが面白いです。 特に吉田松陰が二ツ井・きみまち阪付近を実際にどのルートで通ったのかは調べる価値があります。かなり具体的に旅程を復元できます。 |
| はい、吉田松陰は実際に二ツ井を通っています。しかも面白いことに、現在の「きみまち阪」にあたる難所を越えています。 嘉永5年(1852年)の東北遊歴で、松陰は久保田(秋田市)から北上し、能代を経て荷上場(にあげば)→小繋(こつなぎ)→鷹巣→綴子→大館へ進みました。国交省の資料でも、県北の主要街道が「能代~荷上場~小繋~大館」というルートだったことが確認できます。(道路交通情報提供システム) 特に二ツ井では、荷上場と小繋の間に険しい山があり、通常の旅人や大名行列は米代川の**「一里渡し」**を舟で渡りました。ところが松陰は、舟を使わず、後に「きみまち阪」と呼ばれる険しい坂を歩いて越えたと伝えられています。その日は小繋宿に泊まっています。(アクセス21) さらに翌日の行程もかなりはっきりしていて、坊沢・綴子を経て大館へ入り、白沢で山内儀兵衛宅に宿泊。その翌日には矢立峠を越えて津軽へ入り、弘前へ向かっています。『東北遊日記』にもこの行程が記されています。(アクセス21) したがって、いま「道の駅ふたつい」やきみまち阪のあたりを通ると、170年以上前に22歳の吉田松陰が、雪の残る季節にここを徒歩で北上したことになります。 しかも、現在の「きみまち阪」という名前が付くのは明治15年(1882年)なので、松陰が通った1852年にはまだ「きみまち阪」という名前ではなかった。当時は荷上場側を「郭公坂」、小繋側を「馬上坂」「畜生坂」などと呼んでいたようです。(アクセス21) 明治天皇より約29年前に吉田松陰が同じ場所を通っていたわけです。これは二ツ井の歴史としてかなり面白いですね。 |

| イザベラ・バード、いつ二ツ井を訪れた? |
| イザベラ・バードが二ツ井を通ったのは、1878年(明治11年)7月27日〜28日ごろです。 より具体的には、7月27日に現在の能代市二ツ井町にある「切石の渡し」まで到達しています。ただし増水のため渡し舟が止まっており、旅を急いでいたバードは難儀しています。(ハチロウメビウス) その後、二ツ井周辺を通って北上し、7月30日には矢立峠を越えて青森県側へ入っています。大館市の資料でも、矢立峠通過日は1878年7月30日と確認できます。(どこでもおおだて) つまり、時系列では、 7月22〜23日ごろ 秋田(久保田) → 7月26日 森岳周辺 → 7月27〜28日 能代・二ツ井 → 7月29日ごろ 鷹巣・大館 → 7月30日 矢立峠 という流れです。秋田市での滞在についても、7月23日付の手紙が残っています。(秋田市) 面白いのは、吉田松陰が1852年、イザベラ・バードが1878年、明治天皇が1881年ですから、二ツ井・きみまち阪周辺は、わずか30年ほどの間にこの3人が相次いで通ったことになります。 |
| イザベラ・バード |
| 19世紀イギリスの女性旅行家・紀行作家として有名です。 とくに日本では、1878年(明治11年)に、まだ外国人がほとんど入らなかった東北・北海道を旅し、その記録を 『日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)』 にまとめたことで知られています。 彼女の価値は、単なる観光旅行記ではなく、明治初期の日本の農村、宿場、道路、医療、衛生、食生活、女性の暮らし、貧困、地域社会の様子を、外国人の目で非常に細かく記録したことにあります。秋田や二ツ井、大館などについてもかなり具体的な描写を残しています。 しかも、当時としては非常に珍しい女性の単独旅行者で、通訳の伊藤鶴吉を伴いながら、馬や徒歩で未整備の道を進みました。日本だけでなく、アメリカ、ハワイ、中東、チベット周辺なども旅しています。 要するに、**「明治初期の東北を生々しく記録した世界的旅行家」**という理解がいちばん近いです。 二ツ井との関係でいえば、彼女の記録を読むと、明治天皇の巡幸前の二ツ井・米代川周辺がどれほど交通の難所だったかがよく分かります。 1878年7月、横手付近を通ったときの記述 見物人が集まってくる様子を描きながら、 “the wide-awake babies on the mothers’ backs and in the fathers’ arms” 「目をぱっちり開けた赤ん坊たちは、母親の背中におぶわれたり、父親の腕に抱かれたりしている」 |
| イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、結婚後は Isabella Bird Bishop)は、1831年イングランド・ヨークシャー生まれ、1904年没の旅行家・紀行作家です。ヴィクトリア朝を代表する女性旅行家の一人とされています。(RSGS) 父は英国国教会の牧師で、幼少期は父の赴任に伴って各地を転々としました。若い頃から脊椎などの健康問題に悩まされ、医師から転地や旅行を勧められたことが、海外旅行を始める一つのきっかけになりました。1854年、22歳ごろに初めて北米へ渡り、その後、本格的な旅行家になっていきます。(Geography Directions) 1870年代には、オーストラリア、ハワイ、アメリカ西部を旅行します。特にロッキー山脈を馬で800マイル以上旅した経験をまとめた 『A Lady’s Life in the Rocky Mountains』 は、彼女の代表作の一つです。(ウィキペディア) そして1878年、46歳で日本へ来ます。5月に来日し、横浜・東京から日光へ入り、そこから通常の外国人旅行者がほとんど行かなかった東北内陸部を北上しました。山形、秋田、二ツ井、大館、弘前を経て北海道へ渡っています。通訳として同行したのが伊藤鶴吉です。この旅行をもとに1880年に刊行されたのが 『Unbeaten Tracks in Japan(日本奥地紀行)』 です。(JapanGov – The Government of Japan) 1881年には医師のジョン・ビショップと結婚しますが、1886年に夫が死去。その後は医学を学び、旅行だけでなくキリスト教宣教や医療活動への関心を強め、インド、チベット周辺、ペルシャ、クルディスタン、中国、朝鮮などを旅しました。60歳前後になってからも旅行を続けています。(ウィキペディア) 社会的評価も非常に高く、1890年代には女性として先駆的に地理学界から認められ、1892年には王立地理学協会(Royal Geographical Society)の最初期の女性フェローの一人となりました。 (Royal Geographical Society) 時系列で見ると、 1831年 誕生 1854年 初の北米旅行 1873年 ロッキー山脈旅行 1878年 来日、東北・北海道を旅行 1880年 『日本奥地紀行』刊行 1881年 ジョン・ビショップと結婚 1886年 夫死去 1890年代 インド・中国・朝鮮・中東などを旅行 1892年 王立地理学協会フェロー 1904年 死去(72歳) という人生です。(ウィキペディア) 面白いのは、日本に来た時点ですでに46歳だったことです。しかも1878年の東北は鉄道網がほとんどなく、徒歩・馬・舟で進む旅でした。二ツ井を通ったときも、現代の「旅行家」というより、かなり本格的な探検に近い行動だったと考えたほうが実態に近いです。(スプリンガーリンク) |
| ラフカディオ・ハーンと比較 1850年生まれのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本に来たのは、1890年(明治23年)4月です。39歳のときでした。 横浜に到着した後、同年8月に島根県松江へ赴き、島根県尋常中学校の英語教師となります。そこで後に妻となる小泉セツと出会いました。 つまり、先ほどのイザベラ・バードと比べると、 バード来日:1878年(明治11年) ハーン来日:1890年(明治23年) で、ハーンは12年後です。明治日本を見た外国人という点では共通しますが、バードが「文明開化がまだ地方に十分及んでいない日本」を見たのに対して、ハーンはもう少し近代化が進んだ時期の日本を見ています。 |
羽州街道
