三国峠

2004年8月25日

三国峠
名称は上野(こうずけ)、越後、信濃の3国の国境にあたることに由来する

浅貝から三国峠へ登る三国街道(現在の三国トンネル横)

雪、といっても、太平洋の諸地方で考えるようななまやさしいものではない。人間がかろうじて呼吸できる程度の屋根の下の空間を残して、その物質が点へ積み上げられてゆく。
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この城下から江戸へは、宿場の数にして三六次ある。雪のない季節では七日かかった。
継之助は、発った。
道はいわゆる三国街道をとる。上杉謙信の頃からの古道であったが、しかし、謙信の頃には三国峠はない。
三国峠は越後と関東との間にそそり立つ峻険で、街道最大の難所とされ、江戸幕府の初期にきりおとされた。
冬季、この峠をぶじ超えればマズ命をひろったとみていい。
「一種の狂人かもしれない」
城外まで継之助の出発を見送った人びとは、それぞれわがいろりばたにもどって、みな首をふった。どの者の目にも、一望の雪のなかに消えていった継之助の蓑笠すがたが目に焼き付いていた。
――なぜ、春にしないのか。
というのが、城下の知人たちの不審であった。継之助は「この胸中にあるものごとへの疑問を明かしたい」とこの旅の理由をいう。それならば、春でもかまわぬではないか。
継之助は雪のなかを歩いた。
(そのとおりだ)
と、われながら、自分をそうおもう。狂人であることを、ひそかにみとめていた。
どころか、自分を狂人に仕立てようとしていた。陽明学とは人を狂人にする。
つねに人を行動へと駆り立てている。この思想にあっては、つねに自分の主題を燃やしつづけていなければならない。この人間の世で、自分のいのちをどう使用するか、それを考えるのが陽明学的思考法であり、考えにたどりつけばそれをつねに燃やしつづけ、つねに行動し、世の危難をみれば断固として行動しなければならぬという、つねに激しい電磁生を帯びたおそるべき思想であった。
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(――自分が)
という気持ちがある。自分以外に、人の世を救えぬという孤独さと悲壮感が、この陽明主義にとりつかれた者の特徴であった。自分の命を使える方法と場所を、自分が発見しなければならない。そのことがつねに継之助をいらだたせている。
(いわば、狂人のようなものだ)
それを、継之助は認めていた。狂人でない者はこの冬、雪に埋もれ、炬燵を抱いてねむりこけるであろう。それが常識という者であり、人間のかわいらしさであり、かわいらしい人間どもは継之助を嗤うであろう。
が、継之助はこの雪中を歩いている。みずからを狂人に仕立てる以外に、生きる道を探れない。
そう、継之助は信じている。

途中の六日町で行路が難渋し、越後湯沢についたのは、四日目の陽も暮れおちる刻限であった。
ここには、湯が湧いている。
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翌日は三国峠の麓の浅貝にとまった。この浅貝の宿場で、越後は終わる。あと、三国峠を越えれば関東である。
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途中路肩がくずれ、崖を抱くようにせねばとおれぬところがある。
――通れるか。
と、継之助はさすがに判断に迷い、足をとめた。足もとの土が削げおち、はるかな下に渓流の音のみが聞こえている。おちれば雪がくずれ、命は万に一つもあるまい。
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陽明学にあっては、山中の賊は破りやすく心中の賊は破りがたし、という。継之助はたてえ山中で賊に出遭うことがあっても、賊の出現によって反応するわが心の動きのみを注視し、ついでその心の命ずるところに耳を傾け、即座にその命令に従い、身を行動に移す。賊という客体そのものは、継之助にあっては単なる自然物にすぎない。
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眼前に、難路がある。これも、継之助の思考方法からみれば山中の賊であろう。継之助は、難路そのものよりも、難路から反応した自分の心の動揺を観察し、それをさらにじずめ、静まったところで心の命令をきく。
(その心を、仕立て上げにゆくのが、おれの諸国遊歴の目的である)
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継之助は立ちあがった。やがて岩角をつかみ、崖を抱いて渡りはじめた。
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道中で年が明け、江戸についたときは正月の六日になっていた。
司馬遼太郎『峠』より

継之助
18271/27河井継之助 誕生
182811ヶ月1/23西郷隆盛 誕生
18357歳11ヶ月1/10福沢諭吉 誕生
18368歳11ヶ月1/3坂本龍馬 誕生
185326歳ペリー 来航
1854諸国遊歴の旅へ27歳
186810/1継之助 没 享年41歳

浅貝あたりに立つ、苗場プリンスホテル
ちなみに、スキー場の山は筍山であり苗場山ではない

三国街道と三国峠

三国峠ー永井宿間に残る三国街道

おまけ
三国トンネル越後側入り口あたり