Athens

-776第1回オリンピックペリクレス年齢
-546ペロポネソス同盟
-500ペルシャ戦争勃発
-495頃ペリクレス誕生0
-490第1次ペルシャ戦役 マラトンの会戦 ミルティアデスvsダレイオス1世
-480第2次ペルシャ戦役 サラミスの海戦 テルモピュライの戦い 
テミストクレスvsクセルクセス1世
15
-477デロス同盟
-470頃ソクラテス誕生
-470~450頃クレオン誕生
-449ペルシャ戦争終結
-461~-429ペリクレス時代29~66
-460頃トゥキディデス誕生
-453デロス同盟の基金の貯蔵場所がデロス島からアテネに移される
-450アルキビアデス誕生45
-443ペリクレスによりアクロポリスの丘にパルテノン神殿が着工52
-438パルテノン神殿完成
-429ペリクレス没66
-427頃プラトン誕生
-424トゥキディデス、将軍となり、アンフィリポス失陥後に追放され、亡命性格の中で資料収集をはじめる。
-422クレオン没
-411トゥキディデス『ペロポネソス戦記』が未完のまま中断
-404扇動者に煽られたアテネの市民集会がエーゲ海東方に送られていたストラテゴス(将軍)8人を人民裁判にかけ、逃亡した2人を除く6人を死刑
冬、スパルタがアテネに講話を申し出るが、扇動者に支配されていたアテネの市民集会がこれを拒否
-405アルキビアデス暗殺される
リサンドロス、デロス同盟加盟諸都市に独立を促し、滞在アテネ人には本国帰還を命じる。デロス同盟崩壊
アテネがスパルタに全面降伏。ペロポネソス戦役終結。死後24年
-400トゥキディデス没
-399ソクラテス没
-427プラトン没
-338カイロネアの戦い
古代ギリシア史の大きな転換点となる戦いである。
戦ったのは、マケドニア王フィリッポス2世の軍と、これに対抗したアテネ・テーベを中心とするギリシア諸都市の連合軍である。戦場はギリシア中部のカイロネイアであった。
結果はマケドニア軍の勝利であった。この戦いでは、当時18歳ほどであったフィリッポス2世の息子、のちのアレクサンドロス大王も参加し、騎兵部隊を率いて重要な役割を果たしたとされる。
この敗北によって、アテネやテーベなどのポリスは消滅したわけではない。しかし、各ポリスが独立してギリシア世界の覇権を争う時代は事実上終わり、マケドニアがギリシア世界の主導権を握ることになった
その後、フィリッポス2世はギリシア諸都市をコリントス同盟に組織し、ペルシア遠征を計画した。フィリッポスが暗殺された後、その計画を引き継いだのがアレクサンドロス大王である。
-333イッソスの戦い
アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍と、アケメネス朝ペルシアのダレイオス3世率いる大軍との間で行われた戦いである。
戦場は現在のトルコ南部、地中海沿岸のイッソス付近であった。アレクサンドロスは数で勝るペルシア軍を破り、ダレイオス3世は戦場から逃走した。この勝利によって、アレクサンドロスはシリア・フェニキア方面へ進出する道を開いた。
重要なのは、この戦いが単なる一勝利ではなく、ペルシア王ダレイオス3世本人を戦場で打ち破った最初の決定的大勝利だったことである。
-323ガウガメラの戦い
アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍と、アケメネス朝ペルシアのダレイオス3世率いる軍との間で行われた決戦である。
場所は現在のイラク北部、モスル付近と考えられている。ダレイオス3世は大軍を集め、戦車なども投入したが、アレクサンドロスは巧みな部隊運用によってペルシア軍の中央部を突破した。ダレイオス3世は再び戦場から逃走し、ペルシア軍は敗北した。
この戦いの重要性は、アケメネス朝ペルシア帝国の運命を事実上決定した戦いであった点にある。勝利したアレクサンドロスは、その後バビロン、スーサ、ペルセポリスなどを次々に占領した。
流れを整理すると、
イッソスの戦い(前333)
→ アレクサンドロス、エジプトを征服
→ ガウガメラの戦い(前331)
→ バビロン・スーサ・ペルセポリス占領
→ ダレイオス3世死亡(前330)
→ アケメネス朝滅亡

となる。
つまり、イッソスが「ペルシア王に対する最初の大勝利」なら、ガウガメラは「ペルシア帝国を決定的に倒した戦い」。

アテネという都市国家そのものは存続する

ペリクレス没後24年、紀元前404年、アテネはスパルタに全面降伏し、ペロポネソス戦争は終結。

アテネは長城を破壊され、艦隊の大部分を失い、海外の同盟支配も崩壊して、かつての海上帝国としての覇権国家の地位を失った。

ただし、スパルタはアテネを完全に破壊しなかった。アテネには親スパルタ派の三十人政権(Thirty Tyrants)が置かれ、民主政はいったん停止された。しかしこの政権は長続きせず、紀元前403年には民主政が復活する。

したがって、

紀元前404年:アテネ降伏
→ 海上帝国崩壊
→ 三十人政権
→ 紀元前403年:民主政復活

スパルタがアテネを完全に破壊しなかったのは、政治的・戦略的に「残した方が得」だったからである。

最大の理由は、スパルタの同盟国であるテーベやコリントスがアテネの徹底破壊を求めたのに対し、スパルタがそこまでの処分を望まなかったことである。アテネを消滅させれば、今度はテーベやコリントスが強大化し、スパルタにとって新たな脅威になる可能性があった。

また、アテネはペルシア戦争の際にギリシア世界を守るため大きな役割を果たした都市でもあった。とくにサラミスの海戦などでの功績があり、そうした都市を完全に破壊することへの抵抗感もあったとされる。

さらに、アテネを直接支配するより、弱体化させたうえで親スパルタ政権を置く方が統治コストが低い。そこでスパルタはアテネの長城を破壊し、艦隊をほぼ取り上げ、同盟帝国を解体したうえで、「三十人政権」という親スパルタ派の寡頭政権を成立させた。

したがって、スパルタの判断は、

アテネを消滅させるより、軍事力を奪って従属的な都市国家として残す

というものであった。

結果的には、この判断は長期的にはスパルタの思惑通りにはいかなかった。アテネでは紀元前403年に民主政が復活し、その後再び海軍力を回復して、紀元前4世紀にはスパルタに対抗する勢力として復活することになる。

紀元前403年に民主政が復活した後のアテネは、かつての帝国には戻らなかったものの、再び有力なポリスとして復活した

まず、三十人政権を倒した後、アテネでは民主政が再建された。注目すべきなのは、内戦後に大規模な報復を避け、恩赦を通じて市民社会の再統合を図ったことである。これはアテネ民主政の安定回復に大きく寄与した。

その後、アテネは次第に軍事力・外交力を取り戻し、スパルタへの対抗を強めた。紀元前395年に始まるコリントス戦争では、テーベ、コリントス、アルゴスなどとともにスパルタと戦った。この過程で、ペロポネソス戦争終結時に破壊された長城も再建された。

さらに紀元前378/377年には、アテネを中心として第二次アテネ海上同盟が結成された。これはかつてのデロス同盟のような強圧的な帝国支配を避けることを掲げた同盟であり、アテネは再びエーゲ海における有力な海洋国家となった。

ただし、紀元前5世紀のペリクレス時代ほどの圧倒的な覇権は取り戻せなかった。4世紀のギリシア世界では、

スパルタ → テーベ → マケドニア

と覇権が移っていく。

そして紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍がマケドニア王フィリッポス2世に敗れたことで、アテネが独立した大国としてギリシア政治を主導する時代は事実上終わる。

したがって、

404年 アテネ降伏
→ 403年 民主政復活
→ 395~387年 コリントス戦争
→ 378/377年 第二次アテネ海上同盟
→ 338年 カイロネイアの戦いでマケドニアに敗北

という流れである。

なお、この民主政復活後の時代は文化史上も重要で、ソクラテスの裁判と処刑が紀元前399年である。つまり、ソクラテスが処刑されたのは、ペロポネソス戦争でアテネが敗れたわずか5年後、民主政復活から4年後という、非常に政治的緊張の強い時期であった。