- 1891年 Visp – Zermatt間鉄道開通
- 1895年 Kleine Sheidegg – Jungfrau間鉄道開通
23 May, 1997
グリンデルワルトーアイネクライネシャイデック車中よりみるアイガー北壁

アイガーを見たのは登山電車がグリンデルワルドにつく直前であった。
いきなり何の予告もなしに、右側の車窓に巨大な岸壁が出てきた。
窓から乗り出して見ても、そのいただきが見えないほどその山は高かった。アイガー北壁である。
この時まで私が持っていた山という概念とは遠くかけ離れたものがそこにあった。
それはものすごくでっかい山の岩のかたまりだった。穂高の屏風岩を何倍かにした大きさという表現を使えば、その大きさだけはなんとか言い表すことができるかも知れないけど、屏風岩とは似ても似つかぬものだった。
屏風岩のようにブッシュや草付きがないだけではなく、岩の色も、その成層も、岩ひだの走り方も違っていた。日本のどこかの山をそのまま、算術的に大きくしたというものではなかった。
山全体が別種なのである。岩の皮膚の色も、肉付きも、骨格も違うのである。
私はアイガーを見たとき、ユングフラウを遠望した時とは別な感じを持った。
(人種が違うな・・・・・・)
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私はアイガーの岸壁を車窓から見上げた時は、おっかないような気がした。美しさというものはなく、威圧感だけがあった。うわあ、すげえ、と声を上げるような山でもなかった。なぜここにこんな巨大な岩山があるのかという奇異感がしばらく私を自失させていたことは事実だった。写真で見て想像していたものとは比較にならないほど、けた違いにスケールの大きな山だった。
新田次郎『アルプスの谷 アルプスの村』
10 Oct, 2005
中央が、ヴェッターホルン、眼を右に回した右端の影が、アイガーの左端
盆地の街は、グリンデルワルト
ヴェッターホルンの左の峠が、グロッセシャイデック
グロッセシャイデックを超えると、ライフェンバッハの滝があるマイリンゲン

中央にグロッセシャイデック、その右にヴェッターホルン

メンリッヒェン-クライネシャイデック間の縦走路からみるアイガー

アイガー、メンヒと縦走路

左からユングフラウ、右隣はブライトホルン、右端がシルトホルン

谷間は氷河に削られてできたラウターブルンネンの町

| 1980年に67歳で亡くなった新田次郎。 スイスアルプスを限りなく愛し、憧れ続けたこの作家をしのぶ記念碑が、アイガー、メンヒ、ユングフラウの三山をのぞむクライネ・シャイデックの駅前にある。 この記念碑を作ったのは、妻で自身も作家の藤原ていさん。 遺骨を納めた墓は長野県諏訪市にあるが、ここは遺品のメガネ、万年筆、取材ノート、磁石などをていさん自身が埋めた「精神的なもう一つの墓」。 碑の銅板には、アルプスを愛した日本の作家新田次郎ここに眠る」と書かれている。 1961年、66年、77年と3度スイスアルプスを訪れ、「心身ともに幸福の絶頂にいた」「牧草畑で働いている人たちの姿を見ると、故郷の諏訪へ帰ったような気がした」と著書『アルプスの谷 アルプスの村』に記すほどにアルプスを愛した作家は、子どもの頃に親しんだ故郷、諏訪の昔なつかしい農村の風景を、遠い異国であるスイスアルプスの中に見ていた。 スイス行きを熱心に勧めたのもていさん。死後、再び作家の魂をスイスに連れて行ったのも、妻のていさんだった。 |
| 『地球旅行 スイスアルプス No.4』 |
| リンクした資料は『霧の子孫たち』後書きより 【霧ヶ峰】参照 |
アイガー北壁の前を飛ぶヘリコプター


夕陽に焼けるアイガー

| 12時を過ぎると風が出た。その風がアイガー北壁の雲を払った。久しぶりに巨大な垂直な壁が出た。取りつき点から頂上まで1800メートルの高さの岩の屏風は芳野の去年の記憶の中のアイガー北壁よりもずっと高く,残酷な姿に見えた。 |
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| めずらしくヴェッターホルンが見えていた。眼を右に廻していけば,そこにアイガーがあるのだ。 「あきらめるんだな」 シュトイリがいった。シュトイリは,芳野がなにを考えているかを知っているようだった。 「君の友人の死はあらゆる意味において,けっして無駄じゃあない」 芳野はそのシュトイリの最後のことばに頷きながら彼に握手を求めていった。 |
| 新田次郎「アイガー北壁」より |
アイガー北壁登攀路
日本隊は青の波線(1969年)

- 1891年 Visp – Zermatt間鉄道開通
- 1895年 Kleine Sheidegg – Jungfrau間鉄道開通
付録

