28 July, 2004
| 1568年 | ウィリアム、遂に起つ | 1568年夏、ウィリアムは全世界に訴える文書を公表した。その中でウィリアムは、騒擾の原因が異端審問、数々の勅令、新教徒迫害、新しい司教の任命などにあることを指摘し、フィリップ王は自らの義務とその輝かしい先祖達が遂行した義務を忘れたと、短い文章ではあるが「静かな男」としては珍しく彼自身の怒りを率直に表現した。 |
| 1581年7月26日 | 忠誠破棄宣言 | この宣言こそは、世界で最初の自由民権宣言であり、英国の名誉革命、フランス革命、アメリカ独立宣言の淵源をなすものである。 「人間は君主のために神に創られたのではない。人間は、君主の命令が敬虔なものであっても、あるいは正しくても誤っていてもそれとは関係なく、君主の命令に従い、奴隷として君主に奉仕するために神に創られたものではない。反対に君主は、人民なしでは君主というものは存在しないのであるから、父が子にするように、牧人が羊にするように、正義と公平をもって人民を養い、保護し、統治するためにあるものである。 この原則に反して、人民をあたかも奴隷のように統治しようとする者があれば、その者は専制者と見なされ、もし人民が謙虚な態度の懇願や祈りによっても元来の権利を保障できず、他に方法がない場合は、とくに各週の決議による場合は、その者を拒否し、または配意させることができる」。 この原則を掲げた上で具体的な例を挙げてスペイン王の非を鳴らし、その理由の上に立ってスペイン王への忠誠を廃棄したのがこの文書であり、これ以降はオランダの反乱は名実共にオランダ独立戦争となるわけである。 |
| 1584年7月10日 | ウィリアムⅠ世暗殺される | ウィリアム1世には2万5千フランの賞金が約束されていた。2年間に5回の暗殺未遂があった後、1584年7月10日、ウィリアム公は、カルヴァン派をよそおってウィリアムに近づいた狂信的なカソリックの暗殺者ジェラールの至近距離の3発の銃弾を受けてその場で死ぬ。最後の言葉は、「私は死ぬ。神よわが魂の恵みを垂れ給え。我が哀しき民を救い給え」であった。 |

| ウィリアムⅠ世 | 1533-84 | ウィリアムは元はドイツ人であったが、カール5世の意向で裕福なオランダの伯爵エグモント家から妻をめとり、その友人達との接触を通じて、オランダに対して心から同情と理解を抱くようになっていた。こうしてウィリアムは、気持ちの上ではオランダ人になっていたのであるが、用心深い性格だったので、そのことをフィリップに覚られないように心中深く秘していたという。 |
| マウリッツ公 ルイ・ウィリアム | 1567-1625 1560-1620 | マウリッツがオランダ軍の司令官の地位に就いた時は、オランダはまだ軍隊というほどのものを持っていなかった。それを、やがて装備、編制、用兵すべての面で全ヨーロッパの陸軍の手本となるオランダ陸軍にまで作り上げたのが、マウリッツ公である。 マウリッツは少年時代から数学が好きで、大砲の弾道の研究や土木技術など、当時の戦争で最も重要であった攻城戦に必要な軍事技術に熱中して、学生時代の時間と精力のすべてを捧げた。 マウリッツは、ゼーランドの総督の地位にあった従弟ルイ・ウィリアムの献身的な協力も得た。ルイは古典に深い教養があった。当時の陣形はかなり固定化していて、固く編んだ方形陣以外は誰も考えなかったが、ルイはギリシャ、マケドニア、ローマの陣形から学んで、畳の上の水練という非難も気にかけずに、集中、分散、前進、後退の多様な兵力の運用を実地に応用してみようとした。 こうして2人でつくりあげたオランダ軍は、あらゆる兵種を数えて、歩兵2万と騎兵2千にすぎなかったが、ヨーロッパで最もよく訓練された軍隊となった。 |