19 March, 2000

兵制改革をめぐって政府と議会が対立し,兵制改革に必要な予算が認められず,プロイセンの内政は行き詰まった。1年前に即位した国王ヴィルヘルム1世は退位まで考えるに至った。その時,議会の多数を背景に持たず,しかも軍事予算について議会の承認を得られなくとも兵制改革をやってくれるという人物を,ローン戦争大臣が推薦してきた。行き詰まった国王が最後の望みとして,その人物,ビスマルクに会ったのは1862年9月22日である。首相採用口頭試問が行なわれた。
国王「卿は議会の多数の背景なくして政府を運営しうるや」
ビスマルク「然り」
国王「予算もなく可なりや」
ビスマルク「然り」
国王「然らば卿と共に闘争を続けるのは予が義務なり,予は退位せず」
こうして,首相になったビスマルクが議会で行なった演説が,かの有名な「鉄血演説」である。
この会議において,ビスマルクは野党の議員にシガーケースから取り出したオリーブの小枝を示し,こう言った。
「このオリーブの小枝は,野党に対する平和の担保として差し出すためアビニヨンで折ってきたものである。しかしまだ,時期は尚早か」
この言葉の真意は,野党の自由主義者に対して妥協的な態度を示すことにあった。
しかしながら,演説しはじめたら話が脱線してしまった。平常考えていたことをつい口走ってしまった。
「ドイツはプロイセンの自由主義に期待を寄せているのではない,その力に期待を寄せているのだ。・・・好機が到来するときのために,プロイセンは力を集中し,維持していかねばならぬ。このようなチャンスは,すでに何回か過ぎ去ってしまっている。ウィーン条約の国境のもとでは,我々は健全な国家生活を営むことはできない。演説や多数決では現在の大問題は解決されない。これは,1848年および1849年の大失策だった。これは鉄と血によって解決されるのだ」
これが有名な鉄血演説であり,ビスマルクは何でも残酷に武器を使って解決し,血を流すのも平気なのだと思われることになった。ビスマルク自身,そのようなつもりで言ったわけではなかったが,半ビスマルク派は,野党であろうと,国王の取り巻きであろうと,このように解釈し,しようとした。やっぱりビスマルクの奴は,ということになり,新聞にもでかでかと批判が出た。
当のビスマルクは,新聞をみて驚いて青くなった。
「これで政治生命も終わりだ。何とかせねば」
国王は南独バーデン・バーデンにいて,ちょうどベルリンに帰ってくるところだった。国王も新聞を見て驚いた。
「やっぱりだめだったか」
ビスマルクはすぐに行動した。ベルリンの南の小さな駅で待ち受け,国王の汽車に乗り込んで全精力を注入して説得した。すべては国王への忠誠心より出たことであるし,国王への忠誠心は変わることがないと誓い,国王を納得させた。
ベルリンの駅にビスマルクが国王と共に降り立ったことは,少なくとも国王に,政府側におけるビスマルクの地位を補強し,ビスマルクの狙った目的を達成した。
しかし,この鉄血演説はタイミングも場所も悪く政治家ビスマルクの大失敗であったといえる。だから,彼のことを鉄血宰相などと呼ぶのは悪口になる。失言宰相というに等しい。しかし,野党側はこれでますます硬化し,予算案に反対の態度は明らかになった。
下院は軍制改革に必要な費用を削り,上院はこれを拒否した。
ここでビスマルクは議会の承認を得た予算無しで軍備その他の政府運営に必要な経費を支出した。法律違反だ。
ビスマルク曰く
「プロイセン憲法第99条は予算を毎年,法律で確定すべしと定め,憲法第62条は予算の成立のためには国王と上下両院の一致を必要とする,と決めている。
しかし,これらの条件が満たされない場合はどうなるか。この場合について憲法は何も定めていない。すなわち憲法に『隙間』があるのだ。この場合,国王は今なお統治権を有しているので,この統治権に基づいて政府は経費を支出しうるのだ」
ビスマルクはその後,オーストリアとの戦争に勝利を得た後,この予算の事後承諾を求め議会と和解した。
| 1815 | 0401 | オットー・フォン・ビスマルク 誕生 | ||
| 1848-1849 | ドイツ自由主義者たちによる「自由主義的・議会主義的統一」の失敗 | |||
| 1861 | ヴィルヘルム1世,プロイセン王に即位 | |||
| 1862 | 0922 | ビスマルク、ヴィルヘルム1世に謁見 | ||
| 0923 | ビスマルク、プロイセン宰相となる 47歳 | |||
| 0930 | 「鉄血演説(Blut und Eisen)」 「現代の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血によって決せられる」 | |||
| 1864 | プロシア・デンマーク戦争 | |||
| 1866 | 0703 | 51 | プロシア・オーストリア戦争 7月3日 ケーニヒグレーツ(チェコ語 サドヴァ)の戦いでプロイセン軍は圧勝 モルトケ65歳 | |
| 1867 | 0417 | 北ドイツ連邦成立 北ドイツ連邦憲法が制定され、25歳以上の男性による普通・平等・直接・秘密選挙が制度化される。 ただし、内閣(宰相)は議会に責任を負わず、皇帝にのみ責任を負う制度とした。 | ||
| オーストリア=ハンガリー二重帝国成立 | ||||
| 1870-71 | プロシア・フランス戦争 70年9月2日 セダンの戦いの後,ナポレオン3世はプロイセン王ヴィルヘルム1世に降伏を余儀なくされた | |||
| 1871 | 0118 | ドイツ帝国成立 ビスマルク、初代帝国宰相となる | ||
| 0318 | パリ市民蜂起 フランスのヴェルサイユ政府軍と対立 | |||
| 0328 | パリ・コミューン政府成立 労働者や職人、市民による自治政府として、社会改革や民主的な制度改革を進めようとする | |||
| 0521-0528 | 政府軍は多くの兵士がプロシア軍の捕虜となっており、フランス政府軍は十分な戦力を持っていなかった。 そこで、ビスマルクは、講和交渉を有利に進めるため、また革命がドイツへ波及することを防ぐために、捕虜となっていたフランス兵を早期に釈放する。 解放された兵士たちは政府軍に合流し、1871年5月21日から28日の「血の一週間」でパリ・コミューンを武力鎮圧 | |||
| 0528 | パリ・コミューンは崩壊し、多くのコミューン参加者が殺害・処刑・流刑 | |||
| この事件はヨーロッパの支配層に「社会革命は現実に起こり得る」という強烈な危機感を与えた | ||||
| 1223 | 岩倉使節団、横浜港を発つ | |||
| 1872 | 福澤『学問のすゝめ』 | |||
| 1873 | 1月 | 木戸、大久保に帰国命令が出る (国内で征韓論との対立ゆえ) | ||
| 1873 | 03096 | 岩倉使節団一行、ベルリンに入る | ||
| 1873 | 0315 | 57 | 岩倉使節団、ビスマルク会見 「国際法だけでは国家の独立は守れない。小国は自らの国力を強くしなければならない。プロイセンもかつては弱小国だったが、自助努力によって今日の地位を築いた。」 岩倉47 大久保42 伊藤31 木戸39 (日本にいた西郷は 45) 10月征韓論政変 西南戦争1877年 | |
| 0913 | 岩倉具視帰国 | |||
| 1023 | 西郷、参議を辞して帰郷の途につく | |||
| 1875 | 社会主義労働者党結成(90 社会民主党と改称) | |||
| 1877 | 0215 | 明示10年の政変 西南戦争勃発 福澤『民間経済録』 | ||
| 0924 | 西郷自刃 | |||
| 1878 | 63 | 社会主義鎮圧法(~90) | ||
| 1883 | 68 | 疾病保険法(医療保険) ビスマルク社会保険の嚆矢 | ||
| 1884 | 69 | 労災保険法 | ||
| 1886 | 0613 | 71 | ノイシュバインシュタイン城城主バイエルン国王ルートヴィヒ2世(40)が謎の死を遂げたため、城の建設は急ストップ。 彼の死からわずか数週間後には、未完成のまま一般向けに有料公開される | |
| 1888 | 0615 | 73 | ヴィルヘルム2世即位(29) | |
| 1889 | 74 | 老齢・廃疾保険法(年金保険) | 『憲法義解』 第21条 日本臣民は法律の定めるところに従い納税の義務を有す | |
| 1890 | 75 | ビスマルク失脚、辞任 (28年間在位) 75歳 | ||
| 1898 | 0730 | 83 | ビスマルク他界 | 日本初の政党内閣である第1次大隈内閣が成立したが、党内対立により年内に瓦解 |
| 0910 | エリザベート没(60) |