フローレンス・ナイチンゲール
2008年2月4日


| 1818 | 両親が結婚し、3年間の新婚旅行に出かける。 | ||
| 1819 | 4/19 | 姉パーセノープ・ナイチンゲール、新婚旅行先のナポリで誕生(パーセノープはナポリの古名) | |
| 5/24 | ヴィクトリア女王誕生 | ||
| 1820 | 5/12 | フローレンス・ナイチンゲール、新婚旅行先のフィレンツェにて誕生 | |
| 1829 | 父がハンプシャー州知事となる | ||
| ナイチンゲールは、イタリア人のようにイタリア語ができたお父さんから、ラテン語やギリシャ語を習った。彼女はこれらの基礎を10代でマスターした。古代ローマの政治家キケロの哲学を分析し、古代ギリシャの哲学者プラトンの本を訳して読んだ。そして、お父さんは娘たちの目を世界に向けさせるため、ローマやドイツ、イタリア、トルコなどの歴史を教えることも忘れなかった。 音楽教育も充実していた。おかげでナイチンゲールは、とても音楽好きであった。たとえば、ナイチンゲール家には、ニコルソン家という仲の良い親戚があった。家族ぐるみでロンドンの高級ホテルに宿泊したときには、コンサートに行ったり、ホテルの部屋にあるピアノで、いとこと一緒に音楽レッスンを受けた。ちなみにレッスンを一緒に受けたという、このいとこの名前は、メリアン・ニコルソンといった。年齢も近く、音楽の趣味も一致して、実に仲の良い二人だった。音楽の話で盛り上がって、一日中、一緒に過ごしたという。 *このメアリアン・ニコルソンは、後に、陸軍工兵隊のエリート、ダグラス・ゴールトンと結婚。ナイチンゲールの建築問題に関するアドバイザーになる。 | |||
| 1837 | 2月7日 | 16歳 | 「世の苦しみを救え」との神の声を意識=ジャンヌダルクは13歳で神の声を |
| 1837 ~ 1839 | 1837年9月から1389年4月までの間、エンブリー荘の改築の間、ヨーロッパ大陸への長い旅に出た。現代の日本なら、それはちょうど、高校の修学旅行の年齢にあたる。高校の修学旅行よりも、期間もスケールもかなり豪華だ。ナイチンゲールにとっても、勉強の総仕上げの「海外研修」となったに違いない。 家族は、フランス国内の各地をゆっくりと巡り、北イタリアからスイスにも足を伸ばした。ナイチンゲール一家は、単に観光するたけではなかった。ここが重要である。その土地の上流階級、つまりは当時の学識ある人びとのいろいろな団体や施設を訪問して、交流したのである。まさに総仕上げの「社会研修」である。彼女は、訪れた国や地域での政治や社会の違いにとても興味を持ち、そして訪問先のいろいろな統計データを集めて記録した。 最後はパリに滞在した。フランスの優雅な社交界の体験であった。さらに、当時の英国より先進的だった教会の救護施設や病院、ナースの団体なども訪問している。 | ||
| 1840 | 20 | 「私、数学を勉強したい」と言い出す。 ところが、家族は反対した。お父さんは、勉強したい気持ちは大切だと思った。しかし、どちらかというと、自分が得意な歴史や哲学の勉強をもっとして欲しかったのだろう。お母さんはお母さんで、もっと社交的な実用的技術を身につけて欲しかったのかもしれない。そんな中、おばさんが助けてくれた。「そんなにやりたいのなら、やらせてやったら・・・」彼女は、これまたとびきり優秀な数学の家庭教師について、みっちりと勉強できたのである。 では、なぜナイチンゲールが数学を勉強したいと言いだしたのだろうか。それは、「海外研修」で集めた統計データの数字へのあこがれからかもしれない。当時のヨーロッパでは、ある学者の本が大人気で、出生率や死亡率、犯罪率などが、話題となりつつあったのである。その、ある学者とは、アルフ・ケトレという人であった。 | |
| 1845 | 10代後半からナイチンゲールは、次第に貧しい恵まれない人びとのために役立つことをしたいという気持ちになる。その気持ちは、「海外研修」でいっそう大きくなったに違いない。そして看護の仕事に就きたいと思うようになる。 1845年、ナイチンゲールは思いきって、お母さんにその気持ちを打ち明ける。しかし結局、この計画は大反対され、逆に落ち込んでしまうのである。 | ||
| 1847 | 27 | 1847年秋、知人のブレースブリッジ夫妻に同行して、ローマで冬を過ごすことになった。そのローマで、ナイチンゲールは、その後の彼女の運命に重大な影響を及ぼす、ある人物に出会うことになる。 その人物とは夫妻の友人で、シドリー・ハーバートといった。彼は、ナイチンゲールより10歳年上で、30代後半の若き政治家だった。すでに戦時大臣という要職も経験していた。前年に結婚し、その冬、ローマに滞在していたのである。異国における同国人は、親しくなるものである。ナイチンゲールはハーバート夫妻と、とても仲良くなった。 | |
| 1851 | やっぱり自分の希望を叶えようと決心した。そのためには、家族から離れて独立しよう。ナイチンゲールは、その人生を、1人で歩き出そうと決意したのであった。 今ではドイツのデュッセルドルフの一地区になっている、カイザースヴェルトという街がある。そこには、プロテスタントの牧師のテオドア・フリートナーという人が1836年に創設した、慈善活動をするプロテスタントの修道女のための先進的な訓練学校があった。この病院や孤児院もある施設に、ナイチンゲールは向かったのである。 そこで3カ月の研修を受けたあと、今度はフランスのパリに向かった。そしてパリのほとんどの病院や施設を訪ねて歩き、その組織や運営を勉強したのである。ナイチンゲールは、単に看護の技術を身につけるだけではなく、病院や事前施設で働く人びとをまとめ、管理して運営する組織のことを、学びたかった。 | ||
| 1853 | 8月 | 33歳 | 理解ある知人たちの配慮で、ロンドンにある慈善施設の施設庁をやってもらえないかとの依頼がきた。1853年8月、もちろんナイチンゲールはその依頼を受け、初めて希望する職業についたのである。 彼女の施設長としての活動を支援するため、シドニー・ハーバートの夫人も、その施設を運営する委員になってくれた。こうして彼女は、新しい人生を歩み出したのである。そして、それからわずか2カ月後のこと・・・ |
| 1853 | 10月 | ロシアとトルコとの間に戦争がはじまった。 | |
| 1854 | 3月 | トルコに味方して、英国とフランスも、ロシアに宣戦布告したのである。 | |
| 1854 | 10/12 | 英国のタイムズという新聞が、次のような特派員レポートを掲載 一般市民の皆さんは、きっと驚きと怒りの気持ちを持たれることでしょう。戦地では、負傷者に対して、なんら適切な処置がとられていない状態です。医師が足りない。でも、それだけじゃない。これは組織上の問題で、誰も責めることはできないことかもしれないけど、包帯を巻いてくれる人も、ナースも、まったくいないのです・・・ この戦地の悲惨な状況を伝える記事には、英国内で大きな反響があった。このとき、ナイチンゲールは、これこそ私のなすべき仕事だと思った。天命だと思ったのである。 | |
| さっそく、ボランティアで行こうと準備をはじめた。そのためには就職したばかりの慈善施設をやめる必要がある。彼女は、施設の委員のハーバート夫人に、手紙でクリミアへ行くことを相談する。このとき、夫人の夫であるシドニー・ハーバートは、再び内閣の戦時大臣に就任していたのである。ナイチンゲールは、シドニー・ハーバートの意見も聞いておきたかったのである。ところが、、なんとシドニー・ハーバートの方でも、この問題を解決できるのは、彼女しかいないと思ったのだ。 「政府で派遣するチームの責任者になってほしい」と、ハーバートは、ナイチンゲールに手紙を出す。なんと、二人は同時に同じことを考え、2通の手紙は交差する。 すべての状況がそうさせたのかもしれない。これほどの適任者は、ほかにいなかった。教養があり、ナースの訓練も受けて、政府関係者にも知り合いが多い。彼女はこの任務のために生まれてきたような人物だったのである。 | |||
| 1854 | 10/16 | タイムズ記事のわずか4日後!? 10月16日、ナイチンゲールは、ハーバートに直接会い、彼女が政府の派遣するナース団の団長になることが決まる。 10月21日、ナイチンゲールをはじめ40人ほどのナースチームは、ロンドンをあとにし、クリミアの戦地に向かったのであった。それはタイムズの報道がはじまってから、わずか10日間ほどの出来事だった。 | |
| 1854年11月、ナイチンゲールの一行は、現在のトルコに位置するスクタリという街の英国陸軍病院を本拠地に活動を開始する。ナイチンゲールはまさに「ランプ・オブ・レディー」のナースとして昼夜働いた。そして、現地の軍隊と本国政府の間に立ち、現地の陸軍病院をまさにマネジメントする管理職として、大いに活躍するのである。そのとき、シドニー・ハーパートが戦時大臣であることなど、彼女の政府高官との太いパイプがフルに生かされるのであった。 | |||
| 1855 | 9月 | セバストポール陥落 | |
| 1856 | 3月 | パリ平和条約が調印され、クリミア戦争終結 | |
| 8/7 | ナイチンゲールの献身的な活躍ぶりは、連日のように新聞などで報道され、彼女は国民的な英雄となっていた。人びとは彼女の帰国を、今か今かと待ち望んだ。歓迎式典やパレードを準備する動きもあった。 1856年8月7日、そんな華やかな世間の動きを避けるように、後始末を終えたナイチンゲールは、リー・ハースト荘にひっそりと帰宅した。英雄となって、浮かれている暇などなかった。ゆっくりと休むことなく、彼女は行動を開始した。ナイチンゲールには、どうしてもやらなければならない重大な使命があったのである。 | ||
| 彼女はこの陸軍の衛生状態は、一刻も早く改善されなければならないと強く感じたのだった。それは、不本意にも死んでいった兵士たちへの義務にさえ思えたのである。彼女は、本来衛生状態がよければ死ななくてよかった数多くの兵士たちを思うと、いてもたってもいられなかったのである。 しかしこれは一種の政治的スキャンダルである。その告発は、陸軍の、つまりは政府の政策の失敗をあばくことに等しい。 彼女は、シドニー・ハーバートに相談した。そして、ヴィクトリア女王とその夫のアルバート公に面会し、陸軍の衛生状態の改革の必要性を訴えた。そして陸軍の衛生状態の改革を検討するための、国王による勅撰委員会の設置を強く要望したのである。 勅撰委員会は、国王が命じて組織される委員会で、国会に結果が報告される。この委員会の報告書こそが、ナイチンゲールの考える改革を、政治的に実行してくれるものであった。ものごとは、実行されなければ何にもならな。彼女はそう信じていた。 | |||
| 1858 | 4月 | 1,000頁ほどもある報告書が完成 | |
| 国内の陸軍(赤線)と彼等と同年齢の英国民間男性(黒線)の年齢階層別死亡率の比較 {20~40歳まで、1,000人当たりの年率死亡率、英国男性の死亡率は英国生命表(1849~53)による} | |||

| 英国陸軍は、近衛兵と同様に慎重に選抜された人たちの集まりである。陸軍と民間人の健康を比較するに当たって、この事実を明確にするためには、徴兵適齢期の民間人の中には、病気のために徴兵に応じられない人たちがいること、この中の死亡率は民間人の死亡率を引き上げること、徴兵検査合格者の中には兵役に不適合なものがかなりの割合を占め、彼等は除隊させられ、民間人の中に戻されることなどを知っておく必要がある。陸軍は、このような選抜方法をとり、良好な環境下に置かれているにもかかわらず、なんらかの原因で死亡率が高い結果が出ているのである。 | |||
| 英国内の陸軍兵士、全地域及び健康地区の英国男性の生存者数と死亡者数の比較 (20~40歳まで) |

陸軍主計長官の野営計画のデータより作成した人口密度とロンドン、イースト・ロンドンの人口密度との比較

東方の陸軍病院における英国兵士の原因別死亡率
(1854年4月~1856年3月まで各月の1,000人当たり年死亡率)

| 1861 | 8/2 | シドニー・ハーバート 没 50年と11カ月の生涯 これにより、ナイチンゲールに影響力は失われる | |
| 「たしかに彼女は、スクタリ病院の混乱に秩序をもたらし、私財をなげうってイギリス陸軍に服を着せ、伏魔殿のような役人世界に支配力を拡げていったが、それはお上品なやさしさや、女性らしい自己犠牲の精神によって成し遂げられたわけではなかった。それは厳密な方法と、厳格な規則と、細部への厳しい目と、絶え間ない努力と、不撓不屈の断固なる決意によって成し遂げられたものだった。彼女の冷静沈着な振る舞いの裏には、烈しい情熱の炎が潜んでいた。 by リットン・ストレイチー | |||
